08:明智が風邪引いた話

 頭がぐるぐるずる。体中があづくで最悪だ。

 寝室のベッドに大の字になって、明智は揺れる天井をぼんやりと見上げていた。朝起きてなんだか変だと思って測った体温は三十九度近く、警察の担当者に送る定時の連絡一通打つのにしばらくかかった。熱が出ているので今日は作業ができない旨伝え、解熱剤だけ腹に入れてベッドで倒れている。

 二月の東京はまだ冷えて、昨晩は遅くまで外で調査をしていたからどこかで悪い風邪でももらったのだろう。どことなく息苦しい胸を上下させてなんとか呼吸をしながらそう思う。

 体調を崩すのは不慣れで思考が上手いことまとまらない。パジャマの右腕をひたいにあて、ハアッと大きく息を吐く。

 幼いころ風邪を引くと移すなと言われて母に追い出されて死にそうになったから、それから風邪を引くというのは死ぬことなんだと思って意地でも明智は体調を崩さなかった。だからこんな不意の熱には慣れていないしこういうときどうしたらいいのかわからない。

 大人しく寝てみようと思って、頭痛がジャマしてできなかった。水を飲みに行こうと思っても体に力が入らない。スマホで調べようとも思ったがだるくてやる気がでない。それに調べたところで今の明智の体力でできることはほとんどないだろう。

 あきらめてただ横になることにして、明智はぎゅうっと目をつむる。しかしややあってまた開けた。目をつむるとちらつく顔がある。ゆるゆると首を振って、明智は今日やる予定だった仕事の資料のことを考えることにした。もちろん頭はまとまらない。やはり彼の顔が脳裏に浮かんでげんなりする。

(……もしも、今ここにいたらなんて)

 そんなのばかみたいだ、いつも来るなって言っているのは明智の方なのに。自分が弱ったときだけ呼び出すなんて、そんな格好の悪いマネ明智にはできない。それにこんなタイミングで呼び出したら彼はきっとまた調子に乗るだろう。そんなの明智のプライドがゆるせるはずもない。

 膝を抱えて鼻をすすって、明智はさむいと思った。寝室はこんなに気温が低かっただろうか。エアコンのリモコンを見てみるが適温に設定されている。熱を出しているから悪寒をおぼえることくらいはあるだろう。それにしてもさむい。両手で自分の体を抱いてみて、そうしてはたと気づく。

 しょっちゅう彼が来るせいだ。この冬のあいだは週に二、三度の頻度で彼が勝手に押しかけてきていた。来るなと言うのにやってきて明智に好き勝手をして、次の朝起きると大学に行く。眠るとき彼はうしろから明智を抱いていて、明智もそれにすっかり慣れていたからひとり寝がこんなにさむいなんて忘れていた。クソ、と眉を歪めて明智は舌打ちする。

 しばらく迷ってスマホを持ち上げたりシーツに投げたりして、けっきょく明智は画面をあけた。なんと打っていいかわからず彼のメッセージ欄から通話のボタンを押してみて、コール音が鳴るのを数える。五回鳴らして出なかったら切ろうと思って、しかしその寸前で彼は出た。

『はい、……………明智?』

「……ッ!」

 明智は反射的に通話を切った。けげんな声を聞いたら一気に現実が押しよせて、自分が一瞬でも彼をこころの頼りにしたことが恥ずかしくてたまらなくなった。明智は耐えられなくなって携帯の電源を切り、枕に顔をうずめて己を嫌悪する。

(はあ、サイアク、ホントに、サイアクだ……!)

 明智は悔しさで枕をグズグズと濡らして、そうして泣き疲れて自然と意識を手放した。

  母がまだ生きていたころ、明智は一度、ひどい熱を出した。

「ちょっと、カレに移ったら困るじゃない、しばらくどっかに行ってなさい」

 明智の父に捨てられた母親は当時かなり情緒不安定で色々な男を家に上げていて、その日はそう言って明智の目の前で玄関のドアを閉めた。

十一月の夜にひとり放り出され、裾足らずの服を着た明智はフラフラとアパートを後にして通りをきょろきょろする。家の近くで座り込んでいると母親が悪い噂をされるから、どこか遠くにいかなくてはいけない。それだけがただ頭にあった。

 信号をわたってすこし歩いて、明智は暗くなった児童公園にたどりつく。夏の夜は子どもがいることもあったがこの季節はさすがに無人で、明智はケホケホせきをしながら、タコの形をしたすべり台をのぼって頭の内側に座りこんだ。ここなら外からは見えないし、いくらかは寒さもしのげるだろう。

 膝を抱えて横になってブルブル震えていると、なんだかねむったらこのまま死んでしまうのではないかという思いがにわかに浮かんで明智は怖くなった。自分はここでひとり死んでしまうのかもしれない、――死んでやるもんか、やさしかった母をこんなに苦しませる父親に復讐するまでは砂や石をかじってでも死ねないと思った。暗闇の中でアリが皮膚を這う感覚がすると自分はまだ生きているのだと思って、眠りそうになると膝に爪を食い込ませて意識を保った。死んでやるもんかとただそれだけを思った。

 そうして夜が明けて、けっきょく明智は生きていた。

「……ッッ!」

 ガバリと身を起こして明智は荒っぽく息をする。とおい日の思い出を夢にみていて、全身にひどく汗をかいていた。は、は、と頬の汗をぬぐって現実に気づく。解熱剤が効いたのか先ほどよりはいささか気分がマシになっていて、明智はふと違和感に顔を上げる。

 リビングのほうで何やらいい匂いがしていた。キッチンを使っている音もする。まさかと思ってのろのろとドアを開け、明智はあっと声を上げた。

「お前……! な、なんで……」

 いつもの黒いエプロンをつけてキッチンに立つ彼はゆっくりと明智を振り返った。

「……ああ、明智、起きたのか」

「なっ、なんでいんだよ、……まだ昼だろ、」

 見やった壁時計は十二時をさしていた。平時なら大学の講義を受けている時間のはずである。彼は首を横に振った。

「明智のようすが変だから見に来たら、風邪みたいだったから」

「っで、でも、学校、」

「明智のほうが大事だ」

 ヘンなのと思った。実の親だってどこかに行ってろと言ったのに。明智が困惑していると、小鍋を手にした彼が言う。

「昼ご飯、もうできるから、そこ座れ」

 食卓の四角いカフェテーブルを指され、いつもより頭の回らない明智はしかたなくそこに掛ける。

彼はどんぶりと小皿を持ってきて明智の前に置いた。玉子粥と、リンゴのコンポートのようである。ちらりと彼を見やれば彼は大真面目な顔つきでスプーンにお粥をとり、ふう、ふう、と息をかける。明智はさすがにいやいやと首を振った。

「そこまでされなくても、さすがに自分で食える……!」

「いいから食え」

「んぐ……!」

 冷ましてくれるわりに彼は乱暴にスプーンをつっこんだ。無理やり食べさせられ明智は涙目で彼をにらみ、しかし、あれ、と目線をおろす。

(…………おいしいな)

 ほのかにダシが効いて柚子の風味がする。どうやら普通のお粥ではない。長ネギが細かくきざまれて入っていて、ショウガのような後味も感じられる。さわやかでほっとあたたかく、なんとも体によさそうな味だ。

「うまいか」

「う……うん、」

 風邪を引いたときに丁寧なものを食べると、それだけで元気が出るからということを彼は言った。明智の口にスプーンをつっこみながらそんなような話をして、ふうふうとやってまた食べさせる。

 いちいち抵抗するのも体がだるくて明智はもう気にせず彼の好きにさせることにした。食事は手がこんでいておいしかったし、朝からなにも食べていなかったからすぐどんぶり一杯食べ終えてしまう。

「もっと食べるか?」

「いや、お腹いっぱい」

「じゃあこれ」

 かわりに差し出されたリンゴのコンポートはとびっきり甘くて痺れるほどうまかった。火照った喉によく染みて心地いい。お腹はもういっぱいのはずなのに、明智はひな鳥のように顔をつき出してそれを食べた。

 いつものように茶化すでもなく彼は真剣にスプーンを与え、完食したのを見届けるとほっとしたようすで明智の肩を支えてベッドに連れてゆき、そっとシーツに寝かせてくれる。お姫さまみたいでヘンな気分だ。いつもは嫌がっても乱暴に押し倒すくせに、今日は明智のことをかけらも傷つけたくないような手つきでそうしてくる。

 彼は一度向こうの部屋に行くと、タオルと新しい着替えを手にして寝室にもどってきた。

「体、拭くからじっとしてろ」

 抵抗しようにも体はろくろく動かない。今無体をされたら明智はどうしようもないだろう。けれど彼はやさしく明智のパジャマを脱がすと湿ったタオルで汗を拭いて、左手、右手と持ち上げて体中をきれいにしてくれた。足までぬぐって服を替え、片づけを終えると明智の頭をそっと撫でてくれる。明智はうっとりと目をつむった。

 気持ちがいい。体はしんどいのにこころはどこか安らかで、汗がきれいになったから気分はずいぶんすっきりしている。彼はなにも言わずただずっと明智の頭を撫でていて、明智は、もしかして自分は本当に生きていてよかったのかもしれないとほんのすこしだけそう思った。

 いつか釣り堀で話したとき、彼は明智が生きててよかったと言った。あの言葉が決して嘘ではなかったのが今になって実感としてつたわってくる。

 どうでもいい相手にこんな風にするほどこの男だってヒマではないだろうし、それに、明智のことをもし憎んでいるならこんな、こんなふうに切ない目をして明智を見たりはしないだろう。

 あるいは慈しむような、それかどこか心配で不安げな、そういったものが入りまじった瞳で彼は明智を見下ろしていた。明智がすこしでも咳込めば黒目は揺れて、なだめるような指先が明智のひたいをそっと撫ぜる。

 誰かがそばにいると安心するという感覚を、明智は生まれて初めて理解した。こういうのが普通の親なのかもしれない。でも親に向けるのとはまたちがう感情に明智は当惑する。

(…………………キス、したいかも)

 キスして抱きついて一緒に寝たい。彼がここに来た日はいつもそうだから。今考えると彼が来た日はひとりの夜よりずっとよく眠れたから。

 でもさすがに風邪が移るしそもそも明智にそんなこと言えるわけがない。むずがゆさに頬をまごつかせたり眉を持ち上げたり下げてみたりしていると、それを見た彼がスッと顔をよせてくる。

「明智、どうかしたのか」

「い、いや、なにも……」

「素直に言え」

(ッッ……!! 病人にその圧でくるの、最悪だぞ……!)

 いつもどおりの傲慢さに触れ明智は尻込みそうになったけれど、無言の視線が続きをうながしてくるので迷って考えこむ。

すこし悩んで、熱のせいにできるだろうかと思った。風邪のせいで弱って頭がヘンになっていたと、後から言い訳できるだろうか。わからない。できるような気もする。明智はむずむずと唇をうごかして、そうして意を決して口をひらいた。

「……き、」

「き?」

「…………………………キス、してほしい」

 笑われると思った。彼は笑わなかった。どころかおどろきに目をみはって、それからひどく嬉しげに破顔する。

 わざわざ眼鏡を外して身をかがめると、チュッと小さく音を立てて彼は明智にキスをした。そうしてまたたずねてくる。

「一回でいいのか?」

「………………………………にかい」

 彼は笑って二回も三回もしてくれる。四度目をされる前に明智はあわてて彼を止めた。

「うっ、移るぞ……!」

「単位は足りてるから大丈夫」

 それより明智が甘えてくれて嬉しいと言って彼は何度も明智にキスを落とす。

唇がふやけそうになってとうとう明智が止めると、彼はいつものようにくっついて後ろから明智を抱き、よりそってベッドに寝そべった。もう絶対に移るぞという気持ちと、あたたかさにほっとする気持ちで明智は胸に回された彼の腕にきゅうとすがる。

「明智、好きだ」

 耳もとで彼がささやいた。明智はムス、と唇をとがらせる。

「人が弱ってるときに言うな……」

「ああ、弱みにつけこんでる」

「サイテーだろ……」

 彼は機嫌よく明智の首すじに懐いて大きく息を吸った。明智の匂いとかウイルスとかそういうものを肺いっぱいに吸って、きっと明日には立派な病人だろう。バカな男だ。親だってドアの向こうに遠ざけたのに。でもその愚かさを明智は好ましいと思った。バカで、すごくバカで、本物の真性のバカで、でもあったかくてほっとする。

 原因が原因なのだから明智が看病したってきっとそれはおかしくない話だろう。明智は他人の看病なんてしたことがないけれど、相手が彼だからまあてきとうにやっておけば治るにちがいない。バカは風邪引かないというし、案外ケロッとしているかもしれない。

 そんなことを思いながらうとうとと眠りについて、夢の中にはやっぱり彼がいて、明智はゆったりと心地よさに身を沈めた。おだやかな幸せがしずかな寝室に横たわっていた。

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