「お前、今日はもう上がってもいいんだぞ」
ブランドのカップを布巾でふきながら惣次郎が言った。キッチンの作業台にもたれてぼんやりしていた彼はきょとんと顔を上げる。壁の時計はまだ二十時だ、たしかに客はいないが閉店というにはすこし早い。なんでという目つきで惣次郎を見やれば、惣次郎は呆れたため息をついた。
「二、三日前まで風邪で寝込んでたろ。病み上がりなんだから、無理すんなっつってんだよ」
彼はああ、とうなずいた。明智からもらった、というか明智から吸いとった風邪で数日ほど休んでいたのだ。
でももう治ったと首を振る。今日はいつもなら惣次郎がデートに出かける曜日だ。行ってこいとジェスチャーをすれば惣次郎は片眉を持ち上げて、ガキが気ィ遣うんじゃねぇ、と彼のひたいを指ではじいてくる。
「……ま、でもありがとよ。こないだ用事で会えなかったもんで、ちっと拗ねてんだわ」
それじゃあ店を任せると言って、洒落た冬着に身を包んだ男は喫茶店を後にする。
開店中は物陰にひそんでいる約束のモルガナがピョンッと飛び出して、なあなあと声をかけた。
「杏殿宛ての荷物、送ってくれたか!?」
彼は尻尾を振るモルガナにああとうなずいた。留学中の杏が寂しくないようマフラーを贈りたいとのことで、モルガナはしばらく近所で買い物をしたり荷物を運んだりと惣次郎の手伝いをして小銭を稼いでいたのだ。コインの貯金が数日前貯まったので彼がマフラーを買って海外に送ってやった。
「カァ〜〜〜〜〜ッ!! 杏殿喜ぶかなァ〜〜ッッ! も、もしかして、これを機にワガハイのこと、意識してくれちゃったりなんかしちゃったり……!」
「ないだろ、ネコだし」
「ニャッ!!!! ネコって言うな!!!!」
ネコじゃなければニャッとは言わないと思うのだが、まあいいかと思って彼はキッチンに肘をつき、客もいないのでジーンズのポケットからスマホをとりだして画面を開ける。
SNSや新着のメッセージを見るでもなく、彼は過去の着信の記録をじっと見つめる。
『明智吾郎 音声通話が終了しました。〇分七秒』
風邪を引いた明智からかかってきた電話だ。自分を頼ってくれたのが嬉しくて、ここしばらくながめては目をほそめて反芻している。
プライドの高い明智から連絡がくることは基本的にない。家に行くと未だに怒られるし、抱こうとするともっとギャンギャン怒られる。いつまでも懐かないチワワみたいだ。犬だってもっと可愛げがあるのにとため息をついていると、カウンターにのぼったモルガナは尻尾で器用に彼の肩をこづいてくる。
「なんだぁ? また『カノジョ』かぁ?」
「……そんなんじゃない」
いつも一緒にいるから彼が頻繁に誰かの家に泊まっているのはとっくにモルガナにバレていて、モルガナはどうやらその相手を彼の恋人と勘違いしているようだった。実際は恋人でもなんでもない明智なのだけれど、それを言うのもまあまずいから相手は伏せてある。
(……はあ、明智、今ごろ風呂かな)
シャワーは毎日浴びないと気がすまない男だ。彼が行くとよくホカホカの湯気を立てて今にも襲ってくださいと言わんばかりに頬を染めている。思い出したらムラっときて、彼は思わずキッチンに前のめりになった。
と、そのときドアの開く音がしてはっと身を起こす。
「……えっ」
彼はぽかんと口をあけた。思い描いていた相手がちょうど目の前に立っている。相手、明智はいささか気まずげな顔つきでキャメルのコートに身を包み、どうもとこわばった声を出す。モルガナはオッと湧いた。
「明智!? 久しぶりじゃねーか、去年の夏祭りぶりか?」
彼が強引に誘ってモルガナと双葉たちにまじって明智を連れ出したときの話だ。明智はムッツリとうなずき、彼ははっとしてシンクのへりをつかむ。
「あ……い、いらっしゃい、……コーヒー?」
「……ウン」
明智は神妙にうなずき、彼がいつか贈ったラビットファーの手袋をはずしてカウンターの前の席に腰をおろす。ニャーニャーとモルガナが親しげに話しかけ、彼はどぎまぎしながらサイフォンに手をのばす。何百回もくりかえした作業なのに突然やり方がわからなくなって、あくせくしながらなんとかコーヒーをカップにそそぐ。
ようやくできあがり湯気を立てるそれを明智の前に置くと、それにしても、とモルガナは彼を振り返った。
「オマエら、ずいぶん仲よかったんだなあ!」
「え?」
「だってオマエ、明智が来た瞬間すごい顔してたぞ? もう嬉しくてしょうがないみたいなさ」
「ブッ……!!」
明智はコーヒーを噴き出して彼はその場にくずおれそうになった。なんとか膝に力を入れ、いいやと首を振る。
「きゃ、客が来て嬉しかっただけだ。ヒマだったし」
「そうかぁ? それにしてはニコーッッてしてたけどなぁ」
「……気のせいじゃないの、僕は彼なんかなんとも思ってないし」
(なんとも思ってない男に抱かれてるのか)
彼は思わず内心でつっこみを入れ、モルガナはくるりとカウンターで黒い毛なみを反転させる。
「ま、ワガハイは紳士だから二人にしてやるけどな。せいぜい旧交でもあたためてろよ」
「……そんなものないから」
「ニャハハッ!」
かるく笑ってモルガナは店の外に消え、明智は汚れたテーブルを紙ナプキンでふいて、彼はハアッと脱力した。
(モルガナのやつ、余計なことを……)
黒縁をおさえて頭痛を感じていると、優雅な仕草でカップを持ち上げた明智がぽつりと言う。
「『嬉しくてしょうがない』んだ?」
「ッ……! あ、あれは、モルガナが勝手にそう思っただけで……!」
「ふうん? じゃあ、僕が来たのは気に入らないってワケ?」
「ぐ……っ」
そんなことあるわけない。めずらしく明智に押されて彼は首を振り、明日のモルガナのおやつは抜きにすることをこころに決める。明智はけらけらと笑ってコーヒーを飲んだ。気を取り直した彼はずいと身をのりだしてたずねる。
「なんで来たんだ。なにか用か」
「べつに。近くまで来たからちょっとコーヒー飲みに寄っただけ」
明智はそう言ったぎり、黙ってブレンドの匂いとコクをしずかに楽しんでいる。何かを切り出すようすもなく、どうやらちょっと寄ったというのは本当のようだ。
彼はほっとしたような肩透かしを食らったような気分で後ろの作業台にもたれ、いつもそうしているように客の姿をぼうっと観察する。寒い中を歩いてきたせいか明智は鼻の頭をかすかに赤くさせていて、かわいいと思った。口に出すとまた怒られるから黙ってながめて、明智の上品な指のシルエットとか、かたちのいい唇がうすくひらかれるようすとか、そういった所作にじっと見入る。
「……見すぎでしょ」
ちらりと片目を持ち上げた明智がぼやいた。彼は片手をかるく振る。
「好きな相手が目の前でコーヒー飲んでる」
見ないわけないだろうと暗に言えば、明智はあきれてため息をついた。それから頬杖をつき、やわらかな茶髪をさらりと揺らす。
「やっぱり、店で飲むほうがおいしいね」
器具や材料がそろっているからたしかにそうだろう。彼はうなずく。明智は唇をもじもじとさせて、それからぽそりと続けた。
「……マンションで飲むのも、まあ、悪くはないけどさ」
明智なりに自分を褒めているのだと気づくまですこしかかった。彼は思わずだらしなく笑って、それを見た明智にキッとにらまれる。
「ニヤけすぎ、気持ち悪いんだけど」
「だって、嬉しいから」
「……フン」
明智はつまらなそうにそっぽを向いて、それからちらりと横目に彼を見る。
「その、……みんなもよく来るの?」
「え?」
「怪盗団の」
「……ああ、いや、」
解散とともにバラバラになったメンバーはあちこちに散っていて、東京に戻った者もあれば逆に遠くへ行った者もある。
「たまに、ぽつぽつ誰か来るくらいだ」
「ふうん」
聞いたくせに明智は興味のないそぶりで、どういう質問だったのだろうと彼は首をひねる。視線でたずねれば明智はムスッと言う。
「べつに、……寂しがってるなら、たまに来てからかってやろうかと思っただけだよ」
彼はパッと顔をかがやかせた。
「毎日来てもいいぞ。スタンプカード作ってやる」
「バカ! 調子乗んな」
明智は拳でテーブルをたたいて、それからぽつりとたずねる。
「……スタンプカードって、貯まったらなにかもらえるの?」
彼はすこし考えた。かるく言ったがルブランにそんなものはないし、彼が贈れるものなんて限られている。ううんと考えて、それから彼は自分を指でさした。
「デートチケット。一回分」
明智は渋い顔で腕組みをした。苛立ちを眉間に浮かべ、それからハア、とため息をつく。
「……まあ、持っててあげないこともないけど」
「!」
「かっ、勘違いするなよ、財布のジャマになったら捨ててやるんだからな……!」
「初回だから二十ポイント押してやる」
「すぐいっぱいになるよねそれ!?」
ノリツッコミする明智に笑いながら、彼はどうにも嬉しくてくしゃりと黒髪を手でかいた。いつもは彼が明智のマンションに押しかけるばかりだったからこんなふうに明智が自分のテリトリーにいるのは新鮮で、なんだか明智がすこしは自分に歩みよってくれたような気がして頬がゆるむ。彼がデレデレしていれば明智はやはり不機嫌な顔をして、頬杖をついて彼に聞く。
「……その、風邪、もういいの」
「え? ……ああ、」
明智からもらった風邪のことだ。彼はうんとうなずいた。
「すぐ治った。またもらってやる」
「っ……そ、そんな話はしてないだろ……」
「なんだ、……それで心配して来てくれたのか?」
「!!!!」
わかりやすい明智だ。耳まで真っ赤になるのがかわいい。ちがうとかそんなわけないとか必死でくりかえしている。あんまりかわいくて彼は胸をおさえて、ちょっと待ってろと言いのこして店の表に出た。クローズドの看板にひっくり返し、店にもどって内側から鍵をかける。
楽しげな彼の顔を見た明智は本能的に肩を揺らしてとまどった瞳を向けた。
「おい、なに閉めて、」
「いちゃいちゃしようと思って」
「なッ……!?」
明智はあわててアタッシュケースを持ち上げたが、彼は明智のコートの首根っこをつかんで機嫌よく口笛を吹いた。ギャンギャン鳴くチワワみたいな男を持ち上げてさっさと階段をのぼる。
懐かない犬みたいに思っていたけれどそんなことはなかったのだ。破顔して窓辺のベッドにぽいっと放るとアタッシュケースを両手で抱きしめた明智はプルプル震えて負け犬みたいな瞳で彼を見上げている。彼は笑って明智の髪を撫でた。
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