11:主明がお花見行く話

 はらはらはらはら、雪のように淡い白が風に吹かれてやわらかに夜空を舞う。

 九段下の駅を出て坂をのぼると、千鳥ヶ淵は花見客や仕事帰りの背広でざわざわと揺れていた。すっきりとよく晴れた半月の晩で桜は満開、堀の向こうの武道館はいつになく誇らしげだ。

 公園の入口のコンビニで温かいペットボトルの紅茶を買って彼が待っていると、ややあって明智も混雑した店から出てきて左手を上げた。黒い手袋にカクテルの缶がにぎられている。彼は黒縁の下でうらやましげな目つきをした。

「いいな、外で飲めるの」

「こら、外でとか言うな未成年」

 同じく人避けに眼鏡をかけた明智はいかにも年上ぶってそう言って、めずらしくふふっと楽しげに口角を持ち上げる。

「ま、僕は去年から解禁になったからね。たまに飲むよ、外でもさ」

 明智は機嫌よくそう言って彼のPコートの腕を引いた。彼が誘うとたいていは一回嫌がるが今夜の花見はお気に召したらしい。ラインでは素直に行くという返事がきて、革靴はさっさと公園に向かって歩いていく。


 堀を囲む形でまっすぐ細長い道がつづき、川辺には立派な桜が何本もならんで、木の下から薄桃色のライトがやさしく花々を照らしていた。立ち止まったりベンチに座ったりする人もいれば、ゆるやかに歩く人たちもある。上野あたりとちがって地面が狭いからシートを敷いてやかましく宴会をするような姿は少なかった。

「初めて来たけど、きれいだな」

「ふうん、女の子とでも来たことあるのかと思ってた」

 カショ、とカシオレの缶を開けながら明智が言った。彼は不本意に眉をひそめる。

「そんなに遊んでない」

「はは、『そんなに』ね」

 たしかに中高では人並みに彼女くらいいたこともあったし、大学で明智に再会するまでは手近にいた相手といくらか親しくなったこともあった。それでも明智以上に好きだと思える誰かには出会えなくて、結局いずれも短期間で疎遠になっている。そうして吉祥寺で明智に再会してからはもう明智以外に会う必要がない。

 明智には頑なにフられるからまだ二人は恋人ではないけれど、昔の彼女やら何やらの連絡先も全部消した。そのほうが明智を大切にしている気がしたから。

 両手でペットボトルを握った彼が難しい顔をしていると、軽く酒をあおった明智はカラカラと笑った。

「なにスネてんだよ、デートなんだろ?」

「!」

 彼はいつも「デートだ」って毅然と主張をするけれど、明智の方からそんなふうに言われるのはめずらしかった。一言でかんたんに浮かれて彼はニコニコと明智の横を歩く。明智と夜桜デート。天国の雲の上を散歩する気分だ。

 薄紫の雲みたいに桜はゆらゆら風に揺れ、ひとひら、またひとひら深い堀の水面に落ちてゆく。暗い濃紺の水面をたゆたう白い桜のコントラストがあざやかだ。


 でも、と彼はすぐとなりの明智を振り返る。明智はほろ酔いで彼の向こうの堀を見下ろしていた。桜みたいな頬がきれいだ。酒のおかげで目尻がいつもよりとろんとしている。

 アルコールで火照ってきたのか春物のうすいストールをわずかに緩めた首もとが垣間見え、首すじがうっすらと染まっているのが艶やかだった。彼にとっては桜よりよっぽどきれいな男だ。口に出すとまた照れた明智に一発もらうから黙ってそう思っていると、明智はトレンチコートの肩を震わせてクシュンとくしゃみをした。

「明智、寒いか?」

「ぐずっ……や、べつに、平気」

「……こっち、来い」

 彼は明智の細い肩を右手でつかんでぐいっと引き寄せた。

「おい! 近いんだよふざけんなクソ!」

 明智はキャンキャン不機嫌に吠える。彼は明智の耳に唇をよせてささやいた。

「それ以上騒いだらこの場でキスするぞ」

 明智はカチコチに固まった。花見客はみな桜を見ているがさすがに男同士こんなところでキスなんかしてたら人目につくだろう。肩を抱かれて歩くほうがまだマシだとわかったらしく、明智はブスッとした顔でカクテルを一口かたむける。


 彼は花みたいな明智の香りを楽しみながら夜桜をながめた。明智がときどき照れたような困ったような視線を向けてくるのがいい。三月の夜はまだまだ底冷えで鼻の頭が寒かったが、体の半分をぴったりとくっつけているから温かかった。

 ぬるくなった紅茶を飲みながらゆるやかな人の波をゆき、しばらく歩くと公園の出口が見えてくる。道の端の桜はことさら太くて見事な一本で、明智は思わずワッと駆け寄った。

「すごいね、道中も見事だったけど、ここが一番きれいだ」

 声音はいつになく明るく弾んでいて、彼は嬉しくなった。明智と桜とをならべて写真を撮ろうとスマホを向けて、しかしふと手を止める。

 まっしろな桜が一閃、明智の姿をさらうように空を舞った。風に吹かれた白い筋を明智は目で追って、一瞬、その頬に寂しげな陰影を落とす。

 彼はハッとして明智に駆け寄って、手首を強くつかんだ。明智はきょとんと首をかしげる。なぜだか激しく動悸がして、目眩のような感覚に彼はゆるゆると首を振った。



 記憶の中の明智は、いつもどこか寂しげだった。

 初めて会ったときからたくさんのファンや関係者に囲まれて明るい場所にいたのに、明智はその中でひとりぼっちみたいに彼には見えた。

 銭湯に行ったときは友だちがあまりいないような話をしていたし、ジャズクラブだって彼に教えたのが初めてなのだと明智は言っていた。あの頃の明智は怪盗団の敵として近づいてきていた身だからもしかするとそれらの言葉も嘘なのかもしれないけれど、それでも全部が偽りということもないだろう。

 上手な嘘のコツはところどころに真実を織りまぜることだと本や映画で見たことがある。忙しさに紛れて親しい相手をつくることがなかったというのは少なくとも本当だろう。

 前科持ちだった自分にさえいい仲間がいてくれたのに、ニイジマパレスで行動を共にしたときだって、必要ない場面では明智はなんとなくみんなの輪を外れがちでいた。


 笑う明智はなぜかいつも寂しそうだった。どうしてなのだろうと気になってその影に惹かれて、気づいたときにはもう好きになっていたと思う。

 好きだから明智にはなんにも負けたくなくて、自分が負けず嫌いだということを明智に出会って初めて知った。

 明智のことを心からライバルだと思っていたし、もしニイジマパレスでの作戦に失敗して、彼に殺されるのなら仕方のないことだと思っていた。

 シドウパレスではだからこそ本気で相対して、苦しむ明智はつらそうだったけれど、そのとき初めてこころから笑っているように見えた。

 二月の東京でそうして明智とは別れて、それでも彼はすこしも明智を諦めきれなかった。あの明智がタダで死ぬわけがないと思っていたし、そうでなければ困ると願っていた。

 とにかく東京に行けばまた会えるかもしれないと高三はひたすら勉強した。こちらの大学に入ってからは吉祥寺や渋谷をうろつくようになって、明智に似た背格好のコートを見かけてはため息をついていた。

 ときどき引き出しから手袋をとりだすと明智の体温が感じられる気がしてすこし泣いて、夢の中ですらしばしば明智を追いかけていた。

 だから、あの日も、本当は見まちがいかもしれないと思ったのだ。風になびくハチミツ色の髪、凛とした背中、左手に黒革の手袋。あるいは幻かもしれないとすら思った。祈るような気持ちで手首を強くつかんで、叱責されて、あぁ、明智だ、本当に明智なんだと泣きそうになって、しばらく言葉が上手く出てこなかったのを覚えている。



「……ッねえ、ちょっと!」

「あ、」

 目の前の明智に呼ばれて彼はふと気がついた。明智はムスッとこちらをにらんでいる。

「腕。いつまでつかんでんだよ」

「あ……ごめん、」

 あやまるのに右手からはすこしも力を抜けなくて、彼はおろおろした。明智は片眉を持ち上げてため息をつく。

「もう、……そんな心配しなくても、どこにも行かないし」

「えっ」

 なんだか心を読まれた気分で彼が目を見開くと、明智はフン、と胸を張った。

「僕は君より年上なんだぞ、迷子になったりしないっつってんだよ」

「迷子…………」

 言葉の意味を考えて一拍間を置いて、それから彼は声を上げて笑った。掌からへなへな力が抜ける。こんなときまですれ違っている自分たちがおかしい。

「な、なに笑ってんだよ、ねえ、」

「っ……いや、おかしくて……」

 笑って笑って、笑い疲れて彼は明智の肩口に頭をもたれた。

「はあ、疲れたな」

「……そりゃ、あれだけゲラゲラしてたらそうだろうよ」

「うん。もう帰ろう」

 彼はそう言って明智の右手を引いた。以前は彼の贈った手袋をつけていたがこの頃は気温が上がってきたから今日は素手だ。恋人みたいにつなぐと明智の肩が跳ねる。

「ちょっ、お、お前、話聞いてた!? いいかげん手ェ離せって話してたよな!?」

「そうだな」

「聞いた上で無視すんなよ!!」

「うん」

 怒ってる顔もかわいいから困る。離れないよう手をしっかりつないで、明智に蹴られながら駅までの道を歩く。もう二度とこの手を離してやらないと思ったし、怒鳴る明智はなんだかもうどこかに消えそうにもなくて、おかしかった。




 明智の部屋に帰って上着を脱ぐと、彼は冷蔵庫の缶ビールをとりだしてリビングのソファに座った。エアコンをつけていた明智がムッという顔をする。

「コラ、まだダメだろうが」

「いつも飲んでるだろ」

「ぐっ……だ、ダメなもんはダメなの!」

 明智は常識人ぶったが彼はさほど気にせず蓋を開けた。そもそもあまりビールを好まない明智が缶ビールを何本かストックしてあるのはたまに彼が飲むためだ。明智はちがうと首を振るがまあ嘘だろう。酒を理由に彼が手を出すと明智は文句を言いながらもその口実に乗る。

 そもそも前科があったような人間が律儀にあと数ヶ月で合法になる年齢を守るのも今さらな気がしたから、彼はあまり気にせず明智の家では飲んでいる。

 人目を気にしてハタチになるまで禁酒を守っていた明智は腑に落ちない顔で、途中のコンビニで買い足したサワーの缶を開けた。ソファにならんで座ってちびちびとやる。

 明智はあまり強くなくて、彼は逆に飲み始めなのにそれなり強かった。

 花見の話やら何やらを話しながら飲んでいると明智はだんだん赤くなって、へにゃへにゃしながら彼の肩にもたれてくる。彼はきゅんとときめいてすぐそばの頭を撫でた。

「明智、かわいい」

「えへ……」

 明智はもじもじと身じろぎした。アルコールがすっかり回っている。彼は横目にちらりと明智の顔色を見やってたずねた。

「明智、抱きたい。いいか?」

「ぅん……」

 うなずく吐息は熱っぽく瞳はうるんでいる。彼はそわそわと明智の腰を抱いた。

「んん……ふふ、」

 明智はくすぐったそうに首を振った。とろけそうなかわいさに彼は奥歯をぎゅっと噛む。耳から首まで赤くなった明智を見下ろして、しかしさすがにこの状態の相手に無体をするのはなけなしの良心が咎められる気がしてすこし迷う。

 どうしたものかと悩んでいると、明智はすりすりと彼の首に頬ずりをした。アルコールの匂いと明智の香水の香りに彼はどきりとする。

 一緒にいてこんなにドキドキする相手を彼は他に知らなかった。自分を本気で殺そうとしたのは明智だけ、あんなに心配させたのも、こんなに好きだと思うのも、明智以外の他にない。明智の腰を抱く手に力をこめて、彼はそっと言った。

「明智」

「ぅん……?」

「付き合いたい」

「…………やだ」

「どうしてもだめか」

 酒で弱ったところでぽろりと本音が漏れないかと思って聞いたのに、明智はゆるゆると首を振った。

「ゃだ…………ゲンメツされる、きらわれたくない……」

 彼はゆっくりと息を吸った。緊張していた体に酸素を吸い込み、ハアッと吐く。

 明智の口から付き合いたくない理由をハッキリ聞いたのは初めてだった。納得と寂しさがないまぜになって明智をぎゅうと抱く。

 生まれてこのかた他人の目ばかり意識して独りで怯えながら生きてきた男だ、特別な関係になった相手に幻滅され拒絶されるのはさぞかしおそろしいことだろう。

 しばらく頭を撫でてやると明智はくうくうと寝息を立てはじめて、彼は明智の体を慎重に持ち上げてとなりの寝室に運んだ。窓辺のベッドにそっと横たえ、酒の缶を片づけてリビングの電気を消す。


 明智を起こさないよう静かにベッドに寝そべると、彼は月明かりに照らされた明智の横顔を見つめた。

(……幻滅なんか、絶対にしないのに)

 明智のダメなところならよく知ってる。寝起きが悪くて朝はしばらくぐだぐだなこと、ひとりだと簡単なものしか食べなくなるところ、顔がかわいすぎる、短気ですぐ手や足が出る、恥ずかしいとすぐ死ねって言うところ、押し倒されるのを待っているときの顔がエロすぎること、まだまだたくさん、いっぱいある。でも彼はそれが好きだ。さわやかで明るく万能な探偵王子を気取っていた頃よりずっといい。

 秀尽学園の文化祭でたこ焼きに泣きそうになるところを見たとき初めてかわいいと思った。渋谷の真ん中で手袋を投げつけられたときは明智の特別になった気がして嬉しかった。シドウパレスが消えても明智が生きていてほっとして、それがまやかしだとわかって身を切られるよりつらかった。それでも明智の意志を曲げること彼にはできなかった。好きだから、できなかった。大好きだから諦められなくて、今は毎日、明智なダメなとこを見るたびまた好きになっている。

(ーーだから、今さら、)

 嫌いになんか、絶対になってはやらないのだ。だから明智が自分を信じられるようになるまで待ちたいし、そうなるよう何回でも好きだって伝えたい。

「……明智、好きだ」

 明智の体を後ろから抱き、眠る横顔にそっとささやく。明智はむにゃ、と唇をまごつかせて、僕もと寝言でつぶやいた。彼はすこしだけ泣いて、そうして、ゆっくりと目をつむった。

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