お題02:『オメガバース』

 カタカタと鍋の揺れる音に明智は顔を上げた。十四平米のゆったりしたリビングで、向こうのキッチンに立った彼が夕飯を作っている。

 窓辺の仕事机でパソコンを切り、明智はセーターの肩をゆるく回して立ち上がった。午後いっぱい浮気調査の報告書をまとめていたのでだいぶ凝ってしまっている。

「終わったのか?」

 コンロから顔を上げた彼が声を張ってたずねた。明智はいささかくたびれた表情で首を縦に振る。

 失くしものとか浮気調査とか、タレントをしていた頃から比べるとまるでつまらない仕事ばかりだ。

 それでも数年前の獅童の件でもうおおっぴらに探偵業はできないから、今はウェブで完結する業態に移行してちまちまと小さな仕事で食い扶持を稼いでいる。こころ躍るような内容ではなかったが、毎日食べられれば明智はそれでよかった。

 広々した築浅のキッチンでは、家賃を折半する男がフライパンを片手に持ち上げている。

「お箸出そうか」

「ああ。あと、黒い深皿二つとってほしい」

「はいはい」

 言われるまま食器を出し、皿に盛られた料理をダイニングテーブルに置く。

 今夜はサバの味噌煮をメインにした和食のようだ。絹サヤがのった筑前煮の小鉢、白い長皿には焼きたてのピカピカした卵焼き、それから湯豆腐が鍋ごとドン、と運ばれる。

 マンションの七階はこの時期でもそれほど寒くはなかったが、やはり冬らしいメニューが並ぶとなんとも言えずにほっとした気分になった。

 湯気を立てる食卓に向かい合って手をあわせ、熱々のうちにパクパクと頬張る。柚子がかざられた湯豆腐がサッパリとおいしく、筑前煮は具材がシャキシャキしていて薄めの味つけが上品だった。卵焼きは明智の好みにあわせてとびきり甘い。

「なんか今日すごいね、手が込んでる」

 味がよくしみたサバの身とほかほかのご飯を飲みこんで明智が言った。彼は箸を持った手をかるく振る。

「まあ、明日、休みだし」

 ルブランはもともと無休に近かったが、年をとった惣治郎が店の半分を彼に任せるようになってからは日曜が定休になった。明智もその日は仕事を入れない日にしている。

 ふうんと明智がうなずくと、彼はわずかに口ごもって、それにとつぶやいた。

「その……もうすぐだろ、明智も」

「え? …………あ、」

「……なるべく体にいいもの、食べさせておきたいから」

 明智は頬を赤く染め、彼は無言で食をすすめた。彼の後ろの冷蔵庫にはカレンダーが貼られていて、この土日のあたりにマジックで丸が書かれている。明智の発情期の周期だ。オメガの体質のおかげでこの時期は心身に負担がかかるから、そういえばいつも以上に栄養のいい食事を彼は作りがちだった。

 明智は長いまつ毛を伏せ、アルファの彼とのこれまでに思いをはせる。

 大事件の容疑者として警察に長期勾留されていた明智がようやっと釈放されると、どこからかそれを聞きつけた彼はいそいそと警察署にやってきて明智の首根っこをつかまえた。

「行くとこないんだろ、とりあえずうちに来い」

 そう言ってルブランの屋根裏に引っぱって連れてかれ、仕方なく一緒に住んでいるあいだにオメガの発情期を抑制する薬を彼に見つけられたのだ。

「なんだよ、笑えよ、やっぱり後ろ指さされる人間なんだって思ったんだろ」

 屋根裏の古びたソファで脚を組み、明智はヤケになってふんぞり返った。探偵王子をやっていた頃はそれこそ必死に天才のフリをしていたが、警察の世話になった今はもはや無意味なことだろう。犯罪者が被差別階級だと知れたところで今さらな話だ。

 白い錠剤の箱を手にした彼はしばし黙り込んで、それからゆるく首を振った。

「いや、明智も自分とおなじだと思ってたから、……びっくりして」

 彼はアルファ性なのだということを明智にそのとき初めて打ち明けた。何事も人並み以上に器用なさまを見てそうだろうなと思っていたから明智はたいして驚きがない。

 でも彼はこの世の終わりみたいな顔になった。

「……どうしよう、明智にめちゃくちゃしてしまうかもしれない……」

「…………は????」

 だって明智が好きだからと彼は泣いて、明智は面食らってオイオイとそれを止めた。

「ちょっと、なに泣いてんだよ、泣きたいのはこっちの方なんだけど!?」

「ぐすっ……あげぢにひどいことしだくない……」

「なんでセックスはする前提になってんの!?!?」

「うう〜〜……………………」

 彼はそれから明智の番(つがい)になりたがって、明智は頑なにそれを拒んだ。自分の体の不利益を解消するために大嫌いな男と性的な契約を結ぶなんてまっぴらごめんだ。そんな借りをつくるくらいなら舌を噛み切って死んだほうがいくらかステキな人生だろう。

 けれど彼は微塵もめげなかった。

 明智とおなじベッドで眠ると手を出してしまうかもしれないからと自分は床の布団で寝て、夜はときどき、長めのトイレに行った。

 抑制剤を飲んでいても明智がわずかに甘い匂いを放っているのを感じるとその日はどこかに外泊して、明智がうんと言うまですこしも明智に触れようとはしなかった。

 口癖のように好きだと言っては明智の耳から脳まですりこんで、コーヒーが上手くできるとニコニコで二階に持ってきた。

 近所の闇医者に頼んで副作用の少ないホルモン剤をせっせと明智に買ってきたし、給料日にはかならず大きな花束を贈って、一輪一輪これは何の花言葉なんだと大真面目に語ってみせた。

 他の男が明智に視線を送ると血に飢えた狼みたいな目つきになって、明智がちょっとでも彼を褒めるとうれしさに腹を見せる子犬みたいになった。

 ビリヤードやダーツでときどき遊ぶとあいかわらずすこしも手を抜かず、むしろ以前より真剣に彼は明智とたたかうようになった。

 どんなに小さなことでも明智が勝負だって持ちかければ彼は真面目にそれに付き合った。そうされるたびエリート性の彼が劣等性の自分を心から対等な存在として扱っているのがつたわって明智はどうしたらいいのかわからなくなった。

 体の健康を心配する以外に、彼は明智をすこしもオメガとしてあつかわなかった。むしろ明智の矜持を、その魂をすこしも損なわぬようにとささいなことにも気を遣っているようにすら見えた。

 明智の性別がなんであろうと結局、彼にとって明智が一番のライバルであることにはすこしも変わりがなかったのだ。そうわかったときにはもうどうしようもないほど彼を好きになっていた。

 卑屈な劣等感のかたまりだった明智はとうとう彼に折れて、彼はやっぱり嬉しいと泣いて、アルファのくせに泣くなって明智に怒られて、怒られながらやさしく明智を抱いた。

 番として契約をむすぶのには首を噛まれると聞いていたから、明智はきっと、かなりしっかり噛まれるものなのだと思っていた。それこそ傷がのこるほどの痛みを覚悟していたのに彼は拍子抜けするほどやわらかに明智の喉に歯を立てて、震えながら明智の白い皮膚にそのあかしを刻んだ。

 なぜだか明智ははらはらと泣いて、彼は壊れものを抱くように明智を抱いた。あんまり幸福な夜だった。

 番ができたオメガは発情期のフェロモンを撒き散らさなくなる傾向があるから明智は一旦抑制剤をやめて、そうして数ヶ月が過ぎたところであわてて彼と一緒に武見医院へ駆け込んだ。

 フェロモンがなくなるどころか月に一度の頻度で二、三日ほどの発情期がくるようになっていた。以前は三ヶ月に一度だったはずの頻度が増している。

「あの、明智はなにか、病気とか……?」

「そうねぇ……あんまり聞かない例だけど……たとえば、相手のことをあんまり好きだとそういうこともあるのかもね」

 人体に問題はないから帰っていいよ。武見はあっさりそう言って、明智は絶望で卒倒しそうになった。最悪だ。いっそのこと病気のほうがまだよかった。

 よろよろとよろめく体を彼に引きずられてルブランに戻って、明智はベソベソとやけ酒をした。

「もうさぁ、俺が何したっていうんらよ、サイテーだょ、ホントにさぁ〜」

「いや、明智はけっこう悪いことしてたと思うけど」

「噛みちぎるぞ」

「ちぎらないで……」

 深夜のルブランのカウンターで惣治郎の気に入りのワインを胸に抱き、明智はヒックとしゃっくりした。いいかげん飲みすぎた明智の腕からボトルを引き剥がした彼が二階へ連れて行くと、ベッドに転がされた明智は子どもみたいにヤダヤダとむずがる。

「やだ、くすり、もぉのみたくない……」

 掛け布団を手にしていた彼ははたと止まった。

「嫌なのか?」

「んん…………ヤだ……」

「副作用がつらい?」

 明智はウンウンとうなって首を横に振った。酒でとろけた赤い目が彼を見る。ねだる表情に気づいて彼が明智の服を脱がすと、明智は喘ぎながらぽそりと言った。

「ヒートのとき……お前にめちゃくちゃされるの……っき、きもちいぃ、から……」

 その晩の明智は発情期でもないのに彼はいつになく手荒になってしまった。そんなかわいい理由で嫌だと言われたら薬を飲めなんて言えなくなる。

 けっきょく必要以上に抑制剤は飲まないことになって、発情期が近づくと避妊の薬だけは徹底することになった。普段はかならずゴムをしているがフェロモンにあてられるとそうもできないときがある。

 風呂上がりにパキリと避妊薬の錠剤をとりだして、明智は水と一緒に喉へ流し込んだ。火照った体にミネラルウォーターが心地いい。

 パジャマに着替えてテレビの前のソファにゆったり座り、てきとうにチャンネルをつければ二時間もののサスペンスがかかっている。五分もぼーっと観ていれば犯人がわかって、髪を乾かした彼が何観てるんだとたずねてくるのであらすじを話す。

「それでたぶんこの女将が犯人。さっきの電話で犯人しか知らないこと言ってたから」

「すごいな、それだけでわかるんだ」

「まあ、動機っぽいことも映ってたしね」

「名探偵だ」

「皮肉で言ってる?」

「本気なのに」

 彼はすねた口ぶりでソファの明智にくっついてきた。癖っ毛が首すじに当たって明智はきゃらきゃら笑い声を上げる。彼は自分と色違いのパジャマの脇腹をいじいじとくすぐって、明智はコラ、と不埒な手を叩いて叱った。

 触れ合っているとふと、たがいにドキリとする瞬間があって目と目を見合わせる。先ほど話していたものが始まったらしかった。

 居住まいを正した彼は明智の手をそっと握る。

「明智、ごめん」

「……あやまんなっていっつも言ってる」

「うん、ごめん」

「あやまんなってば。お前さあ、もうちょっと僕の話聞いてもいいんじゃないの?」

「ごめんな、ごめん」

「……ボケようと思ってやってるよな??」

「わかった?」

「百回殺す」

 明智はそう言ったけれど、実際には明智のほうがこのまま死んでしまうかもしれないほど気持ちのいいことをされた。

 体中ぜんぶにキスされ痕をのこされて、普段の彼なら絶対にしないような無理な体位を要求され、たぶん一度か二度くらいは気絶したと思う。

 寝室のベッドは目もあてられないありさまだ。明智どころか彼ももう疲れ切ってシーツに転がっている。

 薬を飲んでなければ妊娠してしまうような目に何度も遭ったせいで、下腹がぽっこりふくらんでいるような気がしていた。喉はガラガラに枯れ、腕や脚を無理やり押さえつけられたせいでそこら中の関節が痛い。

「うぅ……ぃた……」

 泣き腫らした明智がつぶやくと、となりでぐったりしていた彼がハッと身を起こす。

「明智、ごめん、……歯止めが効かなくて、」

「べつに。……薬飲みたくないって言ったの、僕のほうだし」

「……でも、そろそろ飲む?」

「うん」

 一日目のこのタイミングで武見の薬を飲んでおけば、次の日の昼くらいにはたいていフェロモンがおさまっていた。さすがに何日も行為を続けるのは体の負担が大きいので、今日明日くらいは薬を飲む。

 彼が水と薬を持ってきて、明智はなんとか顔だけ起こしてそれをあおった。それだけの動作で全身の筋肉がミシミシと音を立てて、明智はかたちのいい眉をよせる。

 彼はいたましげな表情を浮かべて、指先でやさしく明智の濡れた髪をすいた。番の手に撫でられ明智はまるい目をうっとりとさせる。

 発情期なんて、昔は大嫌いだった。彼の母はやはりおなじ体質で男たちに手ひどく扱われているのを知っていたし、自分にもそれが受け継がれているのを知ったときはショックで吐いてしまったほどだ。

 なんとか周りに悟られぬように肩ひじを張って独りで生きてきて、そうして彼と出会った。

 生まれながらの支配階級の彼のことは羨ましくて憎らしくて、けれど初めて抱かれた夜ぜんぶが幸せでどうでもよくなった。

 世界で一番嫌いな彼の番になれる自分の性質をはじめてよかったと思った。明智がもしほかの性別だったら彼と一対にはなれなかったから、もうそれ以外のなにひとつをいらないと思った。

 発情期に抱かれると自分たちが唯一の対存在だと感じられるから、明智は彼に乱暴をされるのが好きだった。いつもはやさしい彼の手で体がボロボロになればなるほどこころはどうにも満たされた。

 鉛みたいに重い腕を持ち上げて布団の中で彼の肘を引くと、彼はそれだけで察して明智のおでこにキスをする。

「もっとする?」

「……うん」

 こうやってうなずくといつも、明智がもういいって言うまで彼はキスをする。アルファのくせに、オメガのほっぺたに奉仕をするのが自分の仕事みたいな顔つきでそうしてくるのだ。

 明智はおかしくてくつくつと笑った。首をかしげた彼がたずねる。

「くすぐったかった?」

「いや、ううん、……気持ちいいよ」

「そうか」

「うん」

 心地よい疲れに明智は目をそっとつむる。目蓋にもひとつチュッと落とされた。きっといい夢をみるだろうと思った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 今ごろ自分の夢をみていればいいのにと、彼はぼんやりと思った。すやすや寝息を立てはじめた明智のやわらかな髪から手をそっと離し、乱れた布団にそろそろと入る。

 明智に何度乱暴したのかろくろくわからない体はぐったりと疲れていた。すぐそばではあいかわらずフェロモンの甘い花のような香りがしているものの、先ほどから彼ももう眠くてたまらない。

 うつらうつらしながら、彼は自分の番のことを思う。眠る明智の体には痛ましいほどの歯型や鬱血が残っていた。かわいそうだと罪悪感を感じる反面、独占欲が十分に満たされる思いでなんとも心地がいい。

 高校の頃から彼は明智が好きだった。

 ひとつ年上の明智は大人びた店を知っていて、でも、負けず嫌いなところが子どもっぽくて、そのギャップがどうにも癖になった。

 明智の好きな店を彼もまた好きになった。音楽もそうだ。ジャズのCDを何枚か買って、夜はときどき実家でそれを聞いた。明智が目の前からいなくなった寂しさがすこしは紛れるように感ぜられた。

 東京にもどってから冴とはよく連絡をとって、明智が警察署を出られる日付を聞くとすぐ迎えに行った。明智はすこし痩せたようで華奢な線がより細く見えて、一も二もなくルブランに連れ帰った。屋根裏が手狭になるからモルガナは佐倉家のやっかいになって、彼は明智に毎日料理を作った。

 そうしてあるとき明智の荷物に薬の箱をみつけたのだ。学校で習うから抑制剤の存在くらいはさすがに知っていた。

 そうしてそれが明智とむすびついたとき、ーー正直にいえば、彼は興奮した。嬉しかった。番になれば明智をひとりじめできると思った。電流にも似た恍惚が背筋を走ってゾクゾクした。

 でもそんなことを思ってしまった自分の勝手さに同時に胸が痛んで、だからなるべく紳士的に、明智にはすこしも触れまいと心がけた。

 怪盗団として大勢で接していたころは気づかなかったが同じ部屋で二人で暮らすと明智は花の蜜のような匂いがして、はかない決意はたびたび折れそうになってつらかった。情けないと思いながらも深夜にてきどき一階のトイレに下りて、明智の体から発情期の気配を感じると動悸がした。

 オメガの性質を有する人口は少ない。彼が出会った初めてのオメガが明智だった。あるいは自分の脳からアルファのホルモンが命令して明智を好きだと思いこんでいるのかもしれないと悩んだこともあった。

 それでも明智の寝顔はあんまりかわいくて、寝起きの不機嫌な声さえよくて、不満げなときも、満足げなときも、彼はいつも明智が好きだった。

 惣治郎の前だと一応猫を被っていくらか昔みたいないい子になるのもたまらない。ルブランへ遊びに来たモルガナにニャゴニャゴ笑われていた。

 彼の作る料理を気に入って気まずげにおかわりの皿を差しだす姿が好きだった。痩せた明智にきちんとしたものを食べさせてやりたくてカレー以外もせっせと勉強した。

 走って家に帰るとか、ちょっとしたことを決めるジャンケンとか、どんなにささいなことでも明智が勝負だって言うと楽しかった。彼はひとりっ子でそんなことをする相手はいなかったし、勝っても負けても明智がキャンキャンと騒ぐのがおかしい。

 一緒にいると楽しくて、触れられない横顔を見つめると胸がぎゅっと切なくなった。

 だからそのよろこびも、その痛みも、ホルモンのせいだなんて絶対に言わせてはならぬと思った。みんなみんな自分のものだ。明智がアルファだってベータだって、あるいは男だって女だって、彼は明智を好きになった。

(……でも、)

 彼はふと目をあけてとなりを見やる。番の男が安らかに眠っている。彼はうれしくなってぴったりと明智に身をよせた。甘ったるい匂いが肺を満たす。フェロモンのこの匂いは番ができると他の人間にはわからなくなるそうだ。このかぐわしい香りは彼だけのものなのだ。彼はうっとりと相貌をくずす。生まれ持ったアルファ性に特別なにかを感じたことはなかったが明智と番になれたことだけがただ彼にとっての幸いだった。

 明日起きたらきっとまた、彼は明智にひどいことをするだろう。発情期で力の入らない明智にさんざん罵られて、終わったあとは拗ねられて、機嫌をとるのに大変な思いもするだろう。でもたまらなくそれが好きだ。

 明日の午後はどんなコーヒーを入れてやろうと思いながら、彼はゆっくりと目をつむった。

0コメント

  • 1000 / 1000