遅くにルブランのドアが開いて、モルガナはあわててニャオンと店の奥に隠れた。客もなく惣治郎も先ほど上がって、カウンターの向こうでぼんやりしていた彼は顔を上げ、とたんにパッと明るくなる。
「明智!」
「……こんばんは」
いつもどおりムッツリした顔の明智はドアを閉めてカウンター席に掛けた。
「ニャんだ、明智か! 最近よく来るじゃないか」
明智のとなりの椅子に飛び乗ったモルガナがほがらかに言った。どうもと明智もあいさつする。
「ブレンドひとつ」
「いつものって言ったらいいのに」
「……うるさい、さっさとしろ」
彼はニコニコしながらコーヒー豆の袋を持ち上げた。『いつもの』で通じるくらいにこの頃明智はよく店に来る。季節はすっかりいい時期になって、今夜は上着もはおらずワイシャツにアーガイルのベストを着たきりだ。
湯気を立てるカップを彼が置くと、そうだと明智はアタッシュケースを開ける。
「これ、こないだの」
「?」
A4サイズほどの紙包みをさしだされ、彼は中身を問う目で明智を見つめ返す。明智は気まずげにプイッと玄関の方を向いた。
「……おみやげ。鬼怒川で、買えってお前が言ったんだろ」
「あぁ」
彼は納得してうなずいた。テーブルにピョンッと飛び上がったモルガナが紙袋にニャゴニャゴ鼻先をこすりつける。
「ニャんだッ!? ニャんだッ!? オタカラかッ!?」
明智は苦笑して、彼はワクワクしながら軽い包みの包装を丁寧に開けた。
「……これ、」
エプロンだ。紺地で左右のポケットがご当地銘菓の包装紙柄になっているのがオシャレだった。腰の紐はその柄に合わせて明るいオレンジだ。気の利いたプレゼントに彼は破顔する。
「いいな、明智の家で使う」
「……気に入ったんなら、よかったけど」
明智の返事にあれ、と彼はまばたきする。
(いつもなら、来るなって言うのに)
もう来んな、来るなって言ってるだろ、僕の話聞いてるのか。毎回言われたのでもうほとんど「よく来たな、まあゆっくりしていけ」くらいの意味にしか彼はそれをとっていない。
彼はしばらく固まって、それからハッと、自分も明智に土産を買っていたのを思い出した。二階の自室から持ってきて明智に紙袋をわたす。
「え、僕にもあるの?」
「開けてみて」
「なんだろ……ああ、悪くないね」
明智の左の手袋が中身を持ち上げた。入浴剤セットだ。モルガナはフニャアと尻尾を振る。
「いいよなァ〜〜! 温泉! ワガハイも一回浸かったことあるぞ! 温泉の素!」
「そういえば、洗面器に張ってやったんだっけ」
「へえ、君、ネコなのにお風呂平気なんだ?」
「ねッ……!! ネコじゃね〜〜しッッ!?」
モルガナはネコらしく憤慨して尻尾を太くして、明智はくすくす笑った。彼はカウンターに手をついて明智の耳に口をよせる。
「風呂、それ使って明智と一緒に入ろうと思って」
明智の華麗な左フックが腹に決まって、彼の指はテーブルによろよろとダイイングメッセージを書き残した。
しかしながら明智は彼の土産を気に入ったようで、彼が泊まりに押しかけると湯船はときどき緑や茶色に染まって草木のさわやかな香りがしていた。
彼もエプロンを気に入ってせっせと明智に料理を作っている。この前の旅館でバイキングに出たレシピを想像で作って食卓に出すと、明智はわあっと感心した。
「これ、あのときのそうめんだよね」
「うん。やっぱりオリーブオイルみたいだ」
オリーブオイルでニンニクを炒めて鶏ガラのスープを作り、溶き卵とそうめんを加えた一品だ。
明智が特に気に入っていたので再現してみると、明智はよろこんで二回もおかわりした。
「ふう……食べすぎちゃったかもね」
「食後の運動しよう」
「……お前がサンドバッグで僕がボクサーな」
ボクサーは力の入らないスケベな拳で何度も叩いてくるからサンドバッグはなかなかよかった。
計量器や器具やらを買ってきて、彼はときどき、明智のキッチンでデザートの練習もするようになった。
料理はひととおりこなせたがさすがに甘いものは未知数だ。怪盗団の女性陣にときどきスマホで指南をあおぎながら、休みの日はボウルを片手に泡だて器を回す。
旅先でスイーツを楽しむ明智がかわいかったから、いつかちゃんとしたケーキを作ってやるのが当面の目標だ。
レシピに頻出するホットケーキミックスを何箱か買ってきたので、いつかのたこパのセットをとりだして彼は日曜の明智を起こした。
「明智、食べるぞ」
「…………休みの日は起こすなって、……言ってあるよね……?」
寝起きの明智は修羅を越えた顔だ。けれど食卓のようすがいつもとちがうのに気づくと表情はいくらかやわらいで、好奇心が勝ったまるい目がのぞきこんでくる。
「タコ焼き……じゃないよね?」
「まあ見てろ。おいしいの作るから」
「……おいしくなかったら後悔すらできない体にしてやるからね」
明智のジョークはスリリングだった。彼は鼻歌を歌いながらボウルのタネをタコ焼き器に流し込む。
ジュワジュワ音を立てる鉄板からじょじょに甘い匂いがし始めて、身を乗り出した明智はわあっと夢中になった。彼は笑ってパシャリとそれを撮る。明智は子どもがむずかるような仕草をした。ひとつひとつがかわいくて困る。口ではお前なんか嫌いだとか言うくせに、嬉しいとすぐこんな顔をするからもっと好きになる。
彼は目をほそめてタコ焼き器の穴のふちに竹串を突き刺した。前回とおなじく器用にひっくり返す。
「わッ……! ……ベビーカステラ!!」
気づいて沸き立つ明智の取り皿に焼けたものから順番に置いてやる。
「まだ熱いから、ヤケドに気をつけて」
「いただきます……!」
彼は注意したのに二、三度息を吹いて口に放った明智は大変なことになって、彼は声を上げて笑った。今ごろ口の中が大炎上なのだろう。にじむ涙をぬぐいながら明智の右手の横に置いた牛乳のマグを指してやる。明智は砂漠を歩いてきた旅人みたいな必死さでそれを飲み干した。ぜえ、はあ、と息を吐く。
「気をつけろって、言ったのに」
「……だって、おいしそうだったから」
彼は愛しさですっかり胸いっぱいになってしまった。きちんとぬるくなったものから指さして明智に食べさせる。明智は口の中の痛みにハフハフ言いながら笑みを浮かべた。
「すごいね、お祭りで売ってる味だ……!」
「好みでハチミツも合うぞ」
「わっ、いいね」
明智はパクパク元気に食べて、途中で思い出したみたいにカステラの焼ける写真を撮った。
「送って」
彼は自分の分を食べながら言った。牛乳を飲んでいた明智はうなずいて、ややあって机の上に置いた彼のスマホが振動する。
あれからときどき明智は写真を送ってくるようになった。出先でたまたま見かけた虹とかその日食べたものとか、内容はホントにちょっとしたものだ。彼は嬉しくてみんな大事に保存している。高校のころに受け取ったメッセージもそうだ。保護してときどき見返していた。今は新着があるのが嬉しい。
明智は大いに満足して朝ご飯を終えて、お腹いっぱいになると眠いと言って、彼にソファでくっついてきた。
最近の明智はときどきこんなふうに甘えてくる。手を出せってことかと思ってそうすると本当に眠くてキレられることもあるし、逆にようすをうかがっていると早くしろって拗ねられることもあるから難しい。
どちらにせよ、ベッドまで明智をうやうやしく運ぶという点ではおんなじだった。
明智はそれからしばしばルブランに来た。前よりその頻度は上がったように思う。店に来て何をするわけでもないが、コーヒーを飲んで、本を読んだり、ヒマだと洗い物を手伝ったりもする。
スタンプはポンポン貯まっていって、ある晩たまたま明智は双葉と鉢合わせた。
「おわッッ!? なんで明智がいる!?」
「……久しぶりだね」
「常連なんだ、よく来てる」
彼の言葉に明智はコーヒーを噴き出した。
「ッ! ち、ちが、スタンプ、貯めにきてるだけだし……!」
「スタンプ? なんだそれ、私もやりたい!」
「今度な」
双葉と明智は昨年夏祭りに行って以来で、なんだかんだ二人は近況の話をした。
「じゃあ、あのまま警察の手伝いしてるのか」
「まあね。地味な書類仕事だよ」
「ヒヒッ! 根暗な明智にお似合いだな」
「……なかなか言うね」
双葉は大学受験の勉強をしていて、最近は予備校の友だちも増えたと楽しげだ。
そういえばと双葉は思い出した顔で言った。
「お母さんのお墓、行ってくれたんだって? 管理人さんから聞いた」
「そうなのか?」
二人が明智を見つめると、明智は困った目をうつむかせた。
「……ごめん、顔出せる義理じゃないとは思ったんだけど」
双葉は明るく笑った。
「んーん! お母さん、明智がそんな風に変わったこと、よろこんでると思う! ……ありがとな」
明智はすこし迷って顔を上げて、眉をハの字にして双葉にほほえんだ。彼はなんだか嬉しくなって、頼まれてもないのに二人にカレーを出してやる。
「お! いいな! お腹空いてたんだ」
「……僕はいっぱいなんだけど」
「いいから食え」
なんだかんだ言いながら明智はきれいに食べるからかわいかった。
それから数日後、手描きのスタンプカードは半分が埋まって、景品まではあと十回になった。
「これ、十回分ためたご褒美」
彼はそう言って明智に小皿を差し出した。ベイクドチーズケーキだ。甘すぎるのは苦手なようだから砂糖ひかえめのものにした。
「そういえば、最近練習してたよね」
「うん、試作品でわるいけど」
明智はしみじみながめて写真を撮って、それからフォークを口に運ぶ。
「……まぁ、悪くないんじゃない」
彼はよし、と拳をにぎりしめた。無感動な言葉と裏腹に明智の頬がゆるんでいる。かなり気に入ったようすだ。彼はデレデレとカウンターに頬杖をついた。
「それにしても」
「うん?」
ケーキを食べていた明智が目だけを持ち上げる。彼はにやけた顔で言う。
「明智、よっぽどデートしたいんだな」
「!!!! ッッ、ちょ、調子乗んなゴミ!! こういうの貯めるの、好きなだけだし……!」
「デートコース考えとくから」
明智はこらえきれず地団駄を踏んだ。彼は嬉しくてエヘエヘ笑う。
明智が未来の話をしてくれるのは嬉しかった。
花見をした晩、幻滅されるのが嫌だから付き合いたくないと明智は言った。だから彼は明智が自分を本当に信頼できるまで待つ気でいるけれど、それでも、明智がどこかに消えてしまわぬあかしが欲しかった。
そのために明智となんでも約束がしたくて、スタンプカードだって、手袋を返さないのだってそうだ。このスタンプカードが埋まったらきっとまた、今度は別の約束を用意するだろう。
「ねえ、聞いてんの?」
「……え?」
「その…………デートってやつ、どうしてもしたいなら、行ってやらなくもないって話」
「! ホントに?」
「お、お前がそう言ったんだろ……」
「嬉しい、ホテル予約しとく」
「ッッ……!! こ、この、……ゴミ野郎……」
恥ずかしさでどんどん声が小さくなるのが愛おしい。彼は目をほそめて、明智とのこれからに思いを馳せた。
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