六月一日夜、彼はスーパーの袋を両手にたずさえ明智のマンションにやって来た。
明智はいつになくすんなり彼を家に上げて、ちら、と彼の手元を見やる。彼は食卓にドサリと荷物を置いた。
「誕生日、祝いにきた」
「……へ?」
明智はいささか動転した声を上げ、それからコホンとせきばらいをした。あのさあと片手を振る。
「その……もしかして、一日勘違いしてる? あの、明日、なんだけど……」
彼はきっぱりと首を振る。明智に初めて聞いたときからその日付ははっきり覚えていた。
「二日、日曜だし。当日の零時から三日の零時までめいっぱい祝おうと思って。ケーキの材料買ってきた」
明智は困ったようなむずがゆいような、笑いたいような、あるいはそれをこらえるような複雑な百面相をした。それからぽつりとつぶやく。
「……バカじゃないの」
彼は破顔した。明智は耳まで赤く染まって、なんとかせいいっぱい文句を言ってみたふうに見えた。
明智が贈ったエプロンをVネックの上に着ると、彼はせっせと食卓に袋の中身を広げて明智に見せた。
「これが土台のスポンジで、フルーツ、色々買ってきたから明智の好きなの載せよう」
「うわ……すごいね……」
イチゴに桃に、シャインマスカット。キウイと小ぶりなメロンまである。明智は苦笑した。
「買いすぎ。こんなに食べ切れないでしょ」
「明日も明後日も祝えばいい」
彼が真顔で言うから明智は声を上げて笑って彼の肩を小突いた。嬉しげな拳だった。
食卓に向かい合い二人で座って、あれこれ言いながらスポンジに手を伸ばした。明智は部屋着の七分袖を肘までめくり、彼がボウルに作ったクリームを慣れない手つきで黄色いスポンジに塗ってゆく。
「僕、こんなの作るの初めてだ」
「毎年作ろう」
「毎年来るの? ……やんなっちゃうな」
ぼやく声音はおだやかだった。彼がきざんだフルーツを持ち上げ明智はクリームの上にちょんちょんと載せる。クリームとフルーツのしあわせな匂いが室内を満たした。
「……誕生日ケーキなんて、親戚の子どものおこぼれをもらうくらいだったな」
手についたクリームを舐めながら明智がぽつりと言った。彼はナイフから視線を上げる。
「毎年主役の子どもが売り場で好きなケーキを選ぶんだ。それで、名前の入ったプレートを自分の分に載せて食べててさ。他人事だから、僕はあんまり興味がなかった」
「……そうなのか」
「うん。……でも、ふふ、けっこう楽しいね」
彼は目をほそめて正面の男を見据えた。明智はやわらかにほほえんでナイフでクリームを塗っている。普段はもっとキャンキャン吠えがちなのに、今日はいつになく穏やかだ。オートロックでも玄関でも、「来るなって言ってるだろ」といういつもの挨拶はなかった。廊下を歩くあいだずいぶんソワソワしていたし、もしかすると明智も彼が来るのを待っていたのかもしれない。
「これ、なかなか難しいね」
上のスポンジにナイフをすべらせる明智が言った。白いクリームはなかなか均一な面にならない。
「いいよ、貸して」
彼は明智からボウルとナイフを受けとって、スルスルとクリームの表面を撫でた。手首を回して平らにならしてゆく。
「上手いね」
明智は素直に感嘆を口にした。彼は笑って指についたクリームを明智の唇につっこむ。
「!! な、なにひゅんだよッ!」
カプリと甘噛みされ、ちょっとだけ痛い。以前はもっと本気で噛まれていたのに、彼と付き合ううち明智は力加減を覚えたようだった。飼い主に懐いたイヌやネコみたいでなんだかかわいい。
彼はふと悪い気分になって、明智の口に入れた人さし指を左にぐい、と曲げてみた。
「んッ……!?」
てっきりそのまま出ていくものと思っていたらしい明智はおどろきに顔をゆがめ、彼は、今度は右に向かって口の裏側をなぞってみた。
「……!! んっ、にゃ、にゃに……ッ」
混乱にろれつの回らないさまがかわいい。彼は喉で低く笑って明智の口の中を蹂躙した。
「ふん……っ! ん、んぅ……っ! ゃ、やら……っぁ……」
舌を撫で、ふにふにと唇の裏に触れて、ほっぺたの内側をぐにぐに伸ばすと明智は肩をゾクゾク震わせて骨抜きになった。
机にもたれるさまを見て彼はハッと指を抜く。これ以上いじめたら止まらなくなってしまう。
「ごめん、つい」
「…………今日こそお前の命日にしてひゃる……」
しっかり言い切れずとろけた赤い目をさまよわせるようすがなんともいえずに愛らしかった。
上の面にイチゴを山ほどかざると、彼は明智にホイップクリームの入ったビニール袋を手渡した。
「これ、こうやって絞るとこんな風にできるから、イチゴの周りに一周分やってみて」
「え? 僕がやるの? ……上手にできないかもよ?」
「自分でやった方が楽しい」
明智は椅子から立ち上がって神妙な手つきでクリームを絞った。
「あっ! ヤバ、ずれちゃった……」
「いいよ、続けて」
「ん……あ、いい感じかも。……大きさがマチマチになっちゃうな」
「手作りなんてそんなもんだから」
彼はかるく言って、鼻の頭にクリームをつけた明智はきゃらきゃら笑った。
明智がなんとか外周のホイップを終えると、彼は手もとで作業していたチョコレートのプレートを差し出す。
「これ、名前の」
「これも買ったんだ。……いや、明智誕生日おめでとうって。こういうのって、下の名前で書くもんじゃないの?」
「あ」
普段読んでいるとおりに思わず書いてしまったのだ。彼はハッと青ざめて椅子から立ち上がりかけた。
「ご、ごめん、名前がいいなら、今から新しいの買ってくる」
「えぇ? いいよ、べつに」
明智は苦笑して首を振った。そうしてプレートをケーキに飾りながらつぶやく。
「……来年、名前で書いたらいいだろ」
「!」
彼はぺたんと椅子に座って、ぼうっと明智の顔を見上げた。照れくさいのか長いまつ毛がうつむいて白い頬が桃色に染まっている。
なんだか無性にかわいくて下の名前で呼んでみると明智はビクリと肩を震わせて、ムス、としたけれど文句を言うようすはない。ただイチゴみたいな顔色で唇を噛んでいる。
いつものよく吠えるチワワみたいなさまもよかったが今日みたいな反応も新鮮で、彼はハア、とため息をついた。
「え、二十一本、全部買ったの?」
極細のロウソクの束を見て明智はあんぐり口を開けた。彼はうんとうなずく。
「二十一年分お祝いしたいから」
やれやれと肩をすくめる明智に続けて言う。
「ちなみに、これって一息で消せないとその年一年縁起が悪くなるらしい」
「えっ? ……そ、そうなの? 僕が見たときはちがったけど……」
「おおもとの発祥の地ではそうなんだ」
明智はカラフルなロウソクを真剣に立てて、ひとしきり写真を撮り終えると、意気込んでケーキに向き直った。零時にはまだ早いがせっかく完成したから食べようという話になる。
「じゃ、……いくよ?」
「がんばれ」
明智は胸を張って大きく息を吸って、左の端からフーッと消し始めた。数が多いから真ん中を過ぎたあたりでその顔はいささか苦しげになり、それでも負けず嫌いの明智はなんとか最後まで消し終える。ゼエハアと呼吸する明智に彼はにこやかに拍手した。
「誕生日おめでとう。ちなみに縁起が悪くなる話は嘘だ」
「ッッ!?!?!? っおま、おまえ、お前〜〜ッッ!?!??」
机の横に回った明智はボカボカボカボカ彼を殴った。彼は眼鏡をおさえて笑う。
「いや、こんなにまっすぐ騙されると思わなくて」
「うるさい!!!!! ゴミゴミゴミゴミゴミゴミゴミ!!!!!!」
彼はあはあは笑ってロウソクを引き抜いた。
疲れた明智を椅子に座らせ、大きく切ったピースにチョコレートのプレートを載せて明智にやる。
初めての自分のプレートに明智は目をキラキラさせていて、彼は昨年のクリスマスお互いに贈ったカップにコーヒーを入れた。食卓は深夜のお茶会になる。
しばらくまじまじケーキを見ていた明智は小さなフォークをそろそろと持ち上げると、ケーキを倒さぬよう慎重な手つきでそれを切った。そうしてひと口味わい、端正な顔をくしゃくしゃにしてほほえむ。
「……おいしい。すごく」
なぜだか彼の方が泣きそうになった。目もとが熱くてジンとしている。明智がケーキに夢中でよかったと思った。目が合ったらきっと、なに情けない顔してんだよって笑われていただろう。
(……そういえば、クリスマスもこうだったな)
ケーキをいつまでも感慨深げに見つめていた横顔を思い出す。祝いごとにはあまり縁のない暮らしだったから新鮮なのだろう。盆も暮れも正月も、バレンタインでもクリスマスでもなんでも祝ってやりたい気分で彼は明智が食べるさまを見守る。
明智はふと目蓋を持ち上げて、視線と視線がかち合った。左手のフォークはつかのま迷ったふうに揺れ、それからスポンジをひと口ちぎって、ひょい、と彼の前にさしだされる。え、と彼は明智をうかがった。
「明智のケーキだろ?」
明智は答えずなお突き出す。そうして得意げな上目遣いで笑って、愛らしい唇をそっとひらくのだ。
「……あーんだぞ。どうだ」
冗談ではなく彼は倒れそうになった。机の角に二の腕をぶつけ、なんとか踏ん張って椅子から崩れ落ちずに止まる。明智は満足げに笑った。
日付がかわった瞬間彼はおめでとうを言って、コーヒーを飲む明智にプレゼントの包みをわたした。礼を言って包みを開けた明智はすなおに贈り物をよろこぶ。
「チェス! いいね」
重厚感ある上等なチェスのセットだ。彼はうんとうなずいた。
「店ではできるけど、こっちにはないだろ」
「あぁ、キミ、最近調子に乗ってるものね」
高校生で明智に教わってこの頃はほとんど同等の腕前だ。彼がドヤ顔で胸を張ると、ボコボコにしてやるよと笑って明智は犬歯をみせた。
リビングのソファにゆったり座ってテーブルを引き寄せ、二人はさっそくモノクロの盤面に駒をならべた。さっきはああ言ったが食後の心地よさに包まれ、お互いのんびり盤面を動かしている。
「そんなぬるい手でいいの? 僕、次ここに置くけど」
「そしたら、こっちでとるし」
「…………やるじゃん」
駒をトントンと置きながら、明智はとなりの彼の肩にふと頭をもたれた。彼は横目に顔色をのぞき見る。
「明智、眠いのか?」
「え? んー……いや……」
煮えきらない返事だ。彼はすこし考えて、あれ、と首をひねる。
「したいのか?」
「!!!! っな、なに、……し、したいのは、そっちじゃないのかよ……」
明智はあからさまにうろたえて目線をさまよわせた。彼は頭をかく。
「いや、……誕生日だし、無理に抱くつもりはなかったけど」
「えっ……あ、そっ、そう、それならべつに……僕だって……したかったわけじゃないし……」
明智は両耳がしゅんと垂れたポメラニアンみたいになった。彼はパチクリまばたきして、明智の背に両手を差し込んでひょいっと持ち上げる。
「わっ! え、ちょ、ちょっと、」
彼は目の前のひたいにちゅっとキスをした。
「今日は、明智の好きなことだけしようか」
「な、な……ッ!?」
全然なんにも好きじゃないしとか、下ろせとか言いながら明智は彼を殴った。でもホントに下ろすとまた怒られるのだろう。明智は理不尽なのだ。
すこしばかり意趣返ししてやりたい気がして、彼は寝室のドアを開けながら明智にささやいた。
「今日は、日付がかわるまでベッドで過ごそうか」
てっきり蹴られるものとばかり思っていたのに明智は固まって、それから悔しげな涙目で彼をにらみ、……そうしてうつむき、かすかにうなずいた。彼はあ然と立ち尽くして、はたと気づいて走るようにベッドへ飛び込んだ。焼き切れた理性はそこで途切れて、それからあとの記憶はたしかでない。
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