あれ、と驚きをにじませた声に、彼は手もとの花から顔を上げる。バイト先の花屋のエプロンで手をふいて振り返ると、駅地下の通路には見慣れた顔、明智が立っていた。目と目が合い、彼もあ、と声をもらす。制服姿の明智はくしゃりと笑った。
「君、ここで働いてたんだ?」
彼はかるく頭をかく。思いがけぬところを知り合いに見つかるというのはなんだか恥ずかしい気分がするものだ。相手が明智ならなおさらだった。春先に出会った年上の名探偵のことを、彼はすっかり意識している。
彼がいつになくまごついていると、奥のレジで書き物をしていた女性の店長はワッと弾んだ声を上げた。
「あの、探偵王子の……! 明智くんですよね、よくテレビに出てる」
探偵王子は端正な顔に苦笑を浮かべた。店長はきゃあきゃあはしゃぐ。
「やだ、キミ、明智くんと知り合いだったの?」
「え……その、はい」
「え〜! 言ってくれたらよかったのに! あ、よかったらあとでサインもらえませんか……? お花、サービスしますから」
「僕なんかでよければ、よろこんで」
せっかくだから君が包んであげてと店長に言われて、明智がサインを書く横で彼はブーケを作ることになった。彼は店内をぐるりと見渡す。秋口の花屋は夏のにぎやかさが落ちついて、おだやかな色彩に満ちている。
さてどんなテーマの花束を作ればいいのだろうと、彼は明智を振り返った。
「ええと……どんな花がいい?」
かわいらしい手帳にペンを向けていた明智は、かたちのいい唇にそうだなと黒い手袋をあてた。動きにつられて彼の視線は自然と明智の顔へと吸いよせられる。
いかにも知性のにじんだ柔和な面立ちだ。中性的な線の細さがうつくしく、下手すればそのへんの女子より美人に見えた。色白でアーモンドみたいな瞳がきらきらしていて、すっと通った鼻筋が凛々しく、いたずらっぽくうっすらほほえむ唇がなんともいえずに魅力的だ。
彼がおもわず見惚れていると、やわらかな唇はそうだと思いついたふうに言った。
「せっかくだから、あげたい人がいるんだけど、その人宛に作ってもらってもいいかな?」
「えっ」
彼はおどろきに眼鏡の下の黒目をまるくした。明智はくすくす笑う。
「なに、僕だって、あげたい人くらいいるよ。……おかしい?」
「あっ、い、いや! そ、そうじゃないけど……」
彼はつくろう余裕もなくエプロンの肩を落胆させた。自分はバイト中なのだと言い聞かせてなんとか続きを聞く。
「それで、その、……誰に?」
「んー……友だち……みたいな人かな?」
(付き合ってはないんだ……)
どこかほっとした気分で彼は息を吐く。
「どんな人?」
「うーん、面白い人、かな」
明智の面白いの基準がわからないから相手は絞れなかった。新島姉妹とは面識があって姉の方とは親しいようだったが、あの厳格な検事の新島女史を面白いというかどうかは微妙なところかもしれない。
彼は客に聞く最後の質問をした。
「あの……ど、どういったイメージの花束に、しますか……?」
「そうだな……」
明智は先ほどまでより考えこむ顔で、そうしてまっすぐに彼をみつめた。真剣な目線が彼を射抜く。彼はどきりとした。明智はゆっくりと口をひらく。
「ーー君を、殺す」
「……へ?」
意図がつかめず彼がぼうぜんとしていれば明智はややあって笑って、冗談めいた仕草で肩をすくめた。
「あは、思わず殺したくなっちゃうくらい、好きって感じかな?」
「す」
(好き!?!?!?????????)
誰かを思わず殺したくなったことがないから心境自体はわからないが、とにかく明智が相手を特別気に入っているのだけよくわかった。彼は卒倒しそうになったがすぐそばの鞄に隠れていたモルガナが足首を噛んできたのでハッとしてなんとか持ち直す。
制服のすねを押さえながら、彼はガラスの温室棚によろよろと手をついた。
「わ、わかった、作るから……十分くらい、待ってて」
「うん、楽しみにしてるよ」
なんだか今にも全身しおしお枯れそうな気分で、彼は気重な両手を動かした。
明智という男はほかの誰ともちがう、彼にとっては特別な相手だ。六月のテレビ局で出会ったとき明智だって彼のことをそう言っていた。
ひとつ年上の男はいつだって真意がつかめそうでつかめなくて、だからつい気になって、目で追っているうちいつの間にか、ーー好きになっていたと思う。
都会育ちの明智は洒落た店にしばしば彼を連れた。落ちついた店内に明智は物怖じもせずになじんでいて、大人とも子どもとも相いれぬと言っていた明智が自分をその場に伴う相手として選んだのだと思うとじりじりした優越感が彼の胸を焦がす。
彼のささいな言動を、すごいねと明智はまぶしげに褒めた。特別認めた相手だから明智に認められるたび彼は嬉しくて、学校の友達や先生に褒められるのとそれはまったくちがった魔性だ。
「やっぱり、君は面白いね」
明智はよくそうも言って、時計を気にしながら彼と語らった。
「仕事の時間?」
「うん、……でも、あと五分ならいられるから」
予定がギリギリになってもその五分を自分といたいと言われているみたいでクラクラした。
二人でいるときの明智はおしゃべりで、彼がなにか意見するとまるい目を大きくしてなるほどとうなずいた。
「斬新だね、今度頼まれごとしたら、僕もそう言ってみようかな……」
明智は実際彼のマネをしてみたようで、次に会ったときにはカラカラと笑ってこう言った。
「あれ、テレビ局で困ったときそのまま言ってみたら、ディレクターさん笑ってすごすご帰って行ったよ。ふふ、ちょっと悪い気もしたけど、……すっきりしたな」
明智が自分の言葉を真剣に受け止めているのだと思うとなんだか誇らしくて、その心にすこしでも自分が影響を与えたのだと思うとドキドキした。
交わす言葉にはキレがあって、端々に明智の明晰さは感じられた。おとなしげな顔のわりに芯がしっかりしていて意外と挑戦的なところも、負けず嫌いで遊びにも真剣なさまも、ていねいに言葉を選んでゆっくりと喋る話し方も、ときどき彼の言葉で堰が切れたみたいに笑う顔も、みんなみんな、宝ものみたいに彼はただ好きだった。
たとえば明智からメッセージが届くと嬉しくて、一言で事足りる返事に彼は五分も十分もかけてしまう。短い文章を書いては消して、どんなふうに答えたら明智の気を引けるだろうとそればかりを思った。
明智が好きだというジャズも聴いた。曲の名前を覚えて作曲家の本を読んで、なにげなさをよそおって話すと明智はびっくりしながらよろこんでくれる。興奮気味にカタカナの表現ばかりを使って音楽を評するところがおかしくて、半分くらいの単語は彼もわかるようになっていた。
乗り換えの駅で会えるかもしれないから通学の朝はひそかな楽しみで、しばらく顔を見ないと寂しかった。あんまり自分から誘うとなんだか必死に思われるかもしれないから格好悪くて、なにかに誘うのはたまにしかできない。
優雅な仕草で手帳をとじる明智の横顔を、彼はじっとながめた。
好きだ、とても。今までクラスの女子生徒なんかに向けていた思いとは比べようもないほどの熱量で、真剣さで、この男が好きだ。
明智がなにを思って怪盗団の自分に近づいてきたのか未だ真意ははかりきれなかったけれど、たとえその目的がなんであれ、この気持ちが揺らぐことはすこしもないだろう。
「……ハァ」
コスモスを初めとした季節の花をまとめ、彼は最後に、やわらかな黄色のアネモネを添えた。はかない恋という花言葉があるらしい。自分のことのようにも感じられたし、明智が好きな相手とそうなればいいとも思った。
白い紙とビニールでミニブーケをまとめて、できたものを明智にわたす。
「わ、すごい! ……きれいだね」
笑う明智は店の花がかすむほどきれいだ。満開のダリアもナデシコも、今は明智の背景になっていた。彼は目をほそめて明智のよろこぶ顔をながめる。
「今日はもう上がっていいよ」
サイン付きの手帳を抱きしめた店長が言った。明智は彼を振り返る。
「よかったらこの後ご飯でもどう? 勤労学生に奢ってあげるよ」
バックに花を背負った明智は輝かんばかりにまぶしくて、彼は目まいを覚えながらコクコクとうなずいた。
「もっとお高い店でもよかったのに、……ここでいいの?」
セントラル通りのビッグバンバーガーで窓辺のソファ席に座ると、明智は周りを気にしながら小声で彼に聞いた。彼はうんとうなずく。授業のあとのバイトで腹が減っていたし、花束の件でヤキモキしていたから、今日は無性に食べたい気分だった。
それにしてもと明智は机の上を見る。
「これ、……ホントに入るの?」
「労働の後だから。ていうか、明智も同じの頼んだだろ」
二人分のビッグバンなバーガーがそこには並んでいた。なかなかの高さと迫力だ。明智はムス、と唇を噛んでいった。
「だって、……負けたくなかったし」
こんなことで負けても年上の沽券には関わらないと思うのだが、明智は真剣でかわいかった。慣れない手つきで慎重にパンを持ち上げ、めいっぱい口を開けてハムスターみたいにそれを頬張る。
「んむっ……、へ、へっこう、大きいね……」
自分のそれを食べながら、彼は明智が食べるさまをじっと見た。めずらしく手袋をはずした白い手がまぶしい。きめこまやかな、白魚のような手だ。
日ごろ隠された素肌を直視するのはなんだかやましい思いがして、彼はどぎまぎと目線を上にそらす。口の端についたソースをぬぐう仕草が上品だ。大きなバーガーに困りながらなんとかかじっては楽しげにくすくす笑っている。
本人も言っていたが意外と明智は探偵王子らしからぬところがあって、こんな風にときどき普通の少年みたいな一面を見せられると彼はまたたまらない気持ちになった。テレビでは見られない等身大の明智が目の前で困ったり笑ったりしているのだ。苦しげに喉元をおさえてあわて気味に緑茶のストローをつかまえる仕草が愛しかった。
彼がくつくつ笑っていると、目尻に涙をにじませた明智はゼエハアと顔を上げる。
「え、うそ……なんでもう半分も食べてるの? 僕なんてこんなに残ってるのに……」
「成長期だからかな?」
「く……ま、負けないから……」
かわいさに大会があったら負けるどころかとっくに優勝して殿堂入りしているだろう。
ウサギみたいにすこしずつバーガーをかじって、結局最後まで食べきれず明智は三分の一ほどを皿に残した。ビニールのソファにくたりとよりかかってお腹をおさえている。
鞄の影に隠れたモルガナは残り物のポテトをニコニコ食べていて、彼は完食後のコーヒーを飲みながらかるく手を振った。
「残った分はテイクアウトできるんだ」
「はぁ……そうなんだ、もったいないし、トーストし直して明日の朝食かな」
明智はけふ、と口もとをおさえ、それから勝ち気に言った。
「次は、僕も完食してみせるからね」
テイクアウトの袋をもらってJLの駅前までやって来ると、忘れるところだったと明智は片手を持ち上げた。ブーケをつい、と彼にさしだす。
「?」
「君にあげる。本当はね、君があそこで働いてるってマスターに聞いて、気になって寄ってみたんだ。……じゃあ、今日は楽しかったよ、またね」
明智はそう言うとさっさと行ってしまって、残された彼はぽかんとその場に立ち尽くした。さらりとささやかれた言葉を理解するまですこしかかって、それから、先ほどの言葉を思い出す。
『思わず殺したくなっちゃうくらい、好きって感じかな?』
途端にバクバクと心臓がうるさく鳴った。
(な、なん……ッ、……ッッッ!?!?!?)
十月の夜で行き交う人波にはコートも見えるのに、体中の血液が沸騰したみたいに熱かった。よろ、よろ、と数歩ゆき、彼はビルの壁の前にしゃがんで頬をおさえる。
これだから明智はずるかった。誰に花をあげるのだろうと気を揉ませて、そうしていきなりポンッと手渡してくる。花束をもらっても「殺したいくらい好き」では自分を好きなのか嫌いなのかもわからない。いったいどういう意味なのか、今夜一晩彼は悶々とするだろう。
こうやってまた明智のこと以外考えられなくなる。これ以上好きになりようがないと思うのに、手のひらで遊ばれてますます夢中にさせられるのだ。きれいな顔してなんとたちの悪い男だろう。でもそんなところも好きだからどうしようもなかった。
アネモネの茎をぎゅうとつかみ、彼は深々とため息をついた。はかない恋なんかで終わらせてやれる気がしない。抱き締めた花束は甘い匂いがして、こんなふうに明智を抱いたらどんな香りがするのだろうと思った。
背中の鞄は心配そうにモゾモゾ動いていて、彼はゆるく首を振った。しばらく立ち上がれそうになかった。
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