二月二十二日、日曜日。
明智が目を覚ますと、となりで寝ていたはずの彼はにゃんと、ネコになっていた。
ネコといってもモルガナみたいに毛の生えた本物のそれではない。ドンキかどこかで買ったような黒い耳を頭につけ、部屋着のスウェットのズボンに安全ピンで尻尾を留め、黒いチョーカーを首輪に巻きつけた成人男性である。はっきり言って地獄だった。
「ニャニャニャ、ニャンニャ」
衣装はてきとうだったが本人はすっかりなりきったつもりらしく、彼はそう鳴いてベッドで明智に懐いてくる。朝から最悪の気分で明智は昨晩の記憶を振り返った。
「ネコの日だよな、明日」
ベッドで本を読む明智に彼が言った。面倒くさげにミステリー小説から顔を上げ、明智はとなりに寝そべる彼をにらむ。
「言っておくけど、僕なんにもしないからね」
釘を刺しておかないと厄介なイベントに付き合わせてくるタイプの男だ。しかし彼はかるく肩をすくめた。
「残念。明智がネコ耳つけてくれたら一日中かわいがったのに」
「ぜっっっったいにイヤ」
「そうか。じゃあ仕方ないな」
やけにアッサリ引き下がるものだとたしかにそのときは思ったのだ。でも文庫本の続きが気になって明智はそのままにしてしまった。そうして朝がきて、彼の態度はこういう意味だったのだと目の当たりにしている。
「ニャンニャン、ニャン♪」
百八十センチ近い黒ネコは機嫌よく休日の朝食にトーストとコーヒーを用意して、リビングのガラステーブルに運んできた。ソファに座ってキッチンのようすをながめていた明智はげんなりツッコミを入れる。
「いや、料理は普通に作んのかよ」
「ニャ……ニャハハ……」
彼は気まずげに癖っ毛をかき、ごまかすような手つきでコーヒーを飲む。
「ねえ、せめてネコ舌設定くらいは守ったら? 僕が言うのもなんだけどさ」
彼はコーヒーを噴き出して、あわあわとティッシュで身の回りを拭いた。ほかほか湯気を立てるマグカップがのどかだ。
明智はため息をついてトーストをかじる。刺激的なシナモンの香りが食欲をそそり、染み込んだバターが甘くておいしかった。トーストと一口に言ってもさまざまで、ピザトーストやバナナトーストなど、料理の上手い彼は明智が飽きないようしばしば趣向を変えたものを作ってくれた。
パンの合間にコーヒーの苦みを楽しみながら、明智はふと、そうだと思いついて彼を振り向く。
「ねぇ、いつも色んな朝ご飯作ってくれるよね。ご飯のときも、パンのときもさ」
明智は朝から食欲がある方ではないから、それもあって彼は工夫をしているのだろう。急な話題にいささか驚いた目をしながら、黒ネコは首を縦に振った。明智はにっ、と人の悪い笑みを浮かべる。
「いつも感謝してるよ、ありがとう♡ 大好き♡」
「ッッ!! に、ニャ……ッ……!?!?!?」
彼は明智の反応を楽しむつもりでネコになってみせたのだろうが、よくよく考えてみれば明智からすると、彼に何を言っても言い返されない日ということでもある。予想外の反撃に彼は耳まで赤くなってたじろいだ。明智はいい気分で彼と色違いのマグカップをかたむける。
「コーヒーも日によって変えてくれるよね、毎日味が違うから楽しみにしてるんだ」
「にゃっ、ニャ、ニャン………………」
気づいてたのかと言いたげな「ニャン」だ。ヒトの言葉が話せないのはさぞつらい気分だろう。
自分で始めたことなのに、こんな思いをするならもうやめてしまおうかと思い悩むようすが表情から見てとれた。明智は笑顔で退路をふさぐ。
「あ〜〜、残念だなぁ、ネコの日じゃなかったら君の返事が聞けたのに。でも、ネコの日って言い出したのはそっちだし。……まさか、もうやめるなんて言わないよね??」
「……ッッッッッッッ!!」
負けず嫌いの二人だ、どう煽れば相手が引き下がれなくなるのか互いによく知っていた。彼は絶望を黒目に浮かべて、力なくニャンとうなずいた。
天気がいいのでその日は洗濯をして、シーツを洗ってマンションのベランダに布団も干した。洗濯の待ち時間で二LDKに掃除機をかけ、諸々が終わったところで二人はソファにもたれこむ。
「ゴミ袋、そろそろ切れるから買わなきゃね」
「ニャン」
「……あ。お前、歯磨き粉終わりかけだろ。それもだ」
「ニャンニャン」
明智はいつものように彼宛のメッセージ欄に買い物のメモを送った。気づけばとなりの猫科にもう順応していて、耳と尻尾も見慣れてきている。
用を済ませた明智がガラステーブルに携帯を置くと、彼は明智の膝に頭をのせ、ゆったりと広いソファでころんと身をまるめた。両手をまるくしてネコみたいな仕草でくつろぎ始める。物言いを入れるのにも飽きたので明智はしずかに彼の黒髪を撫でた。
「ニャン♪」
もっとしてくれと頭が押しつけられる。明智は苦笑して言われたとおりにしてやった。自分の細くやわらかい髪とちがって癖の強い質感に目をほそめる。
それからネコといえば喉だったかと思って、骨っぽい喉仏のあたりをくすぐるような仕草でなぞってやった。上を向いた彼はしばし悩むような目つきをして、そうしておずおずと口をひらく。
「ご……ゴロゴロ……」
明智は破顔した。
「ふはっ! 自分で言うのかよ!?」
さすがに本人もどうかと思ったのか、彼は恥ずかしげに明智の太ももに顔をうずめて身を小さくした。
つぼに入った明智はしばらく笑って、すっかり拗ねてしまった黒猫の背中をとんとんとかるく叩いてやる。
「なあ、悪かったって、拗ねるなよ」
「……ニャア」
機嫌はまだ直らぬようすだ。仕方ないなと明智は彼の耳にゆるく髪をかけた。
「?」
けげんそうな横顔を見下ろしながら、明智はあらわになった耳たぶにそっと触れる。彼の目にはわずかに緊張が走った。普通の触れ方でないのを感じとったらしい。明智はくすくす笑って彼の左耳を撫ぜた。
「ネコなんだろ? やっぱり耳って気持ちいいの?」
「ニッ、ニャ、ニャニャニャ……!」
明智、と言いたげなイントネーションだったがネコ語なので真偽はわからない。明智は彼の耳のふちをくるくるとなぞって、やわらかな耳たぶをふに、と揉んだ。
「……っ!」
ただならぬやり方に彼はあわてて飛び起きて、ソファの端に身をよせた。本物のネコみたいに明智を警戒している。明智はだんだんこのふざけた遊びが楽しくなってきて、ねえ、と話しかけた。
「ねえ、かわいがってやるからこっちおいでよ。ほら、怖くないよ?」
「ウ、ウゥ……」
ふわふわしたマフラーの尻尾はもちろん意思を持って動いたりはしないのだけれど、それでも半分くらいは心が揺らぐさまが見てとれた。
明智は彼の好きな角度に頬を傾け、両手を広げておいでと甘い声で誘う。彼はとうとう抗えず、いつにない誘惑にふらふらしながら吸い寄せられた。明智は笑って彼の肩に手を置き、今度は右耳にちゅっとキスをする。
「ッ! に、ニャ……!」
「んふ、甘やかしてあげるね……」
ぴちゃぴちゃ音を立てて明智はそこをねぶった。ふっと息を吹きかけると彼はびくりと肩を震わせ前のめりにもじもじしていて、いつもは自分に好き勝手をする男をこちらがいじめている実感に明智は満ち足りた気分になる。
いたずらに耳の穴に舌を差し入れ、軟骨をやわく吸って甘噛みする。甘えたネコの仮面はすこしずつ剥がれ落ちて、男は吐息の合間に低い声を漏らし始めた。明智は思わず背筋をゾクゾクさせながら彼の耳を責める。
「んっ……はぁ……ぅん……」
抱き締めた頭をゆるゆると撫で、わざと甘い声で耳から直接彼の本能にささやきかける。興奮に目もとを赤く染めた男は唇を噛んで、ネコの真似どころではなく自分の拳を強く握って眉根をよせた。
「あは、まだ我慢できるの? いいコだね……」
明智はスウェットの尻に手をのばし、作りものの尻尾ごと彼の硬い尻を撫でた。
「あッ……!」
鳴かされるのはいつも明智の方だったが彼の口からこぼれるうめきはセクシーで、明智はますます調子に乗った。大きな黒ネコの膝に座り、黒い首輪にキスをする。彼の反応にあてられてほんのり頬を染め、太腿で彼の腰をはさんで問いかける。
「ねえ、……ネコが人間とこういうことするのは、ヘンだよね?」
「……っ」
「やっぱり君はネコじゃないって認めるなら、このままさせてやってもいいけど……どうする?」
「う……ぐ、うゥ……ッ」
理性と負けん気でグラグラだ。でも明智が自分の部屋着の襟をひろげて誘うともう我慢しきれなくなって、彼はワッとソファに明智を押し倒した。背中でスプリングが跳ねるのを感じながら明智はきゃらきゃら笑う。
「あは、根比べで負けても僕としたいんだ?」
「っくそ、この……ッ!」
「あれ、もうニャンニャン言うのは終わりかな? かわいかったのに」
「ッ……!! こ、こっちが、朝から、どんな思いで……っ!」
悔しさで真っ赤になった彼はポイポイと明智の服を脱がして、明智は笑って彼の黒耳をいじった。自分の体に沈みこむ彼が上下するたび毛先がふわふわと揺れてかわいかった。
「……あーあ、一日ネコになって明智に甘えるつもりだったのに」
服を替え、とりこんだばかりのふかふかの布団に寝転んで彼がぼやく。となりで午後の日差しを浴びていた明智はふふんと得意げに笑った。彼はムスッと明智を抱き寄せうなじに抗議の甘噛みをする。混ざりあった二人の匂いと汗の名残りと、それから布団にしみこんだお日さまの香りがした。フローリングの硬さと羽毛布団のやわらかさの上、日なたでじゃれ合うネコみたいにしばらくいちゃいちゃしていると、おでことおでこをくっつけた明智はふと言った。
「ねぇ、そうだ、なんなら今度は僕がネコになってやろうか」
「え?」
「君より耐えられる自信あるよ」
そう言って明智は床に転がっていた黒耳をつけて、主人公の胸の上にちょんと乗ってくる。
「あは、……こうかな? にゃー、ニャンニャン、ニャッ」
明智はふざけた手つきで彼の胸を引っかくそぶりをした。そうして子猫みたいにすりすりと鼻や頬を押しつける。しばらくふざけた仕草で楽しんでいたが、不穏な気配をふいに感じて明智はふにゃ?と顔を上げる。
「ッ……! にゃ、にゃんで……! さ、さっきもしたのに、」
「……明智が誘うのが悪いんだろ」
「さ、誘ってなんか、に、ニャッ……!?」
先ほどよりよっぽど肉食獣みたいな顔つきの彼は目の前の子猫を床に引き倒して、明智はギニャッと悲鳴を上げた。
来年は絶対ネコの日なんてやらニャいぞと、腹の上に乗る黒ネコをにらみながら明智は固く心に決めた。
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