秋雨がそぼ降る九月の晩だった。カランと音を立ててルブランの戸を開けた明智は制服のワイシャツを胸まで濡らしていて、客が帰ったテーブルを拭いていた彼はポーカーフェイスをくずして布巾を取り落とした。カウンターの奥に立った店主は彼と明智と壁時計を見比べる。
「おい、友だちに服貸してやれ。今日はもう店じまいにすっから」
「いいのか? ずいぶん早いけど」
「この雨じゃ客も来ねえだろ。明智くんだったよな? ……くつろいでってもらって構わねえからよ」
「……すみません。傘を忘れちゃって、すこし、雨宿りさせてもらおうと思って」
明智は濡れた頬でひかえめにほほえんだ。惣治郎は閉店の準備を始め、床にしゃがんだモルガナは店の残りのカレーを夕飯に食べはじめる。
突然のことにおどろきながらも彼は明智を二階の自室へ上げた。
「向かいの銭湯また行ってもいいけど、どうする?」
「ん……気分じゃないや」
「そうか」
階段をのぼりながら明智は首を横に振るので彼もそれ以上はすすめなかった。棚から部屋着のパーカーとスウェットのズボンをとりだして明智を振り返る。
「……っ」
間近で見た明智はどこか憂いを帯びた雰囲気で髪や服を濡らしていて、素肌に張りついた真っ白いシャツにどうにも目線を奪われた。彼はあわてて顔をそむけ、ぐいと服を押しつけて一階へ下りようと階段に足を向ける。けれど明智はその背に言った。
「待って、……行かないで」
「え?」
振り返れば明智はいつになく不安げではかなく見えて、彼はすこし迷って、階段の一番上の段に座った。プライバシーを気にして壁の方に首を向ける。ほっと息を吐く音が屋根裏にしずかな屋根裏に響いて、明智は制服を脱ぎ始めたようだった。
窓の向こうのかすかな雨音にまじって衣擦れの音がする。シュルリとネクタイを外し、パサリと肩からシャツが落ちる音がして、彼は思わず身を固くした。
同性の着替えなんて体育の更衣で見慣れているはずなのに、そこらの女子よりよっぽどきれいな顔立ちの明智がすぐそこで裸身をさらしているのだと思うとどうにも気まずく居心地がわるい。だって以前から彼は明智を意識していた。初めはテレビ局での一言に違和感をおぼえてあやしい相手だと思って、本意を探ろうと付き合ううち、いつのまにか一つ上の男にすっかり心惹かれていた。
明智は同世代の男子とはまるで違っていた。汗くさかったことなんか一度もないし、いつも甘い香水の匂いがしていて、彼に呆れてくすくす笑うさまがスケベで甘い声がかわいかった。そんな明智が今日はめずらしく沈んで自分を頼っている。
「その……なにかあったのか?」
背後では言葉に迷うような息遣いがあった。それから明智はやんわりと濁す。
「いや、たいしたことじゃないよ。悪いね、急に押しかけて」
「べつに……いいけど」
会話はそれぎり打ち切られ、仕方がないので彼は膝を抱えて薄汚れた壁のシミをじっと見つめた。なるべく意識をそらそうとするのにそうすればするほど背後が気になって仕方がない。ズボンが床に落ちる音がして、彼は両手でジーンズの膝小僧をつかんだ。気になる相手が自分の部屋で服を脱いでいるというのはなんとも心臓に悪い。
ドキドキしながら耐えていると明智はもういいよと言うので彼はほっと顔を上げ、それからはたと固くなる。
彼の部屋着に着替えた明智は付き合ってもないのに恋人みたいで気まずく、どうにも目のやり場に困った。その上パーカーの裾にすんと鼻をよせ、明智はちらりとこちらを見て言うのだ。
「……君の匂いがするね」
この男はなんだってこう、人を煽るのがうまいのだろう。彼は両手の拳に爪を立ててそうかとうなずいた。
壁際のソファに明智を座らせると、彼は壁からコードを伸ばしてドライヤーのスイッチを入れた。放っておけば乾くからいいなどと明智が言うので彼が勝手に乾かすことにしたのだ。
夜はすこしずつ涼しくなっていて、窓の隙間から入り込む空気は秋の香りがしはじめている。風邪を引いてもなんらおかしくないだろう。
熱くなりすぎないよう真ん中の温度に設定して、彼はソファに膝をついて明智の頭を乾かしてやった。細い茶髪に指をとおし、ゆるく撫でながら温風をあてる。
なんだか子どものころ飼っていた犬みたいだ。思わずなでなでとやっていると、不意に明智の香水が鼻先に触れてどきりとする。犬の毛とちがって明智の髪はさらさらしていて、指先からするりとこぼれるたびバニラの甘い匂いがした。ふとこちらを見上げた明智の瞳はいたずらにクスと笑う。
「! な、なに、」
「いや? ……なんだか、やらしい顔してるなぁと思って」
「っ……!」
彼は危うく自分の手をヤケドしそうになった。ソファでゆったり脚を組んだ明智が白い頬をかたむける。
「なに意識してるの? 男同士なのに」
男とか女とかそういう問題じゃない、そんなのどうでもいいくらい明智はかわいいから困るのだ。
彼はドライヤーのスイッチを止め、いいかげん髪も乾いただろうとコンセントを引き抜く。ばつの悪い顔をそらしてコードをてきとうに丸めながらソファを下りた。
「……コーヒー、入れてくる」
「ほんと? ……砂糖、二杯くらい入れてくれる?」
「いいけど。めずらしいな」
「そんな気分なんだ」
二階のソファに並んで座って彼はブラック、明智は砂糖二杯のそれを飲む。秋の夜にあたたかな苦みがしみた。明智もほうっと息を吐き、マグカップの白い湯気に手をあてている。彼はかるく手を振って明智をうかがった。
「すこしは落ちついた?」
「うん、……そうだね。ありがと」
びしょ濡れの捨て犬みたいだった明智はお腹の中まで温まってようやっとおだやかな笑みを見せた。彼はほっとして自分のマグをかたむける。慎重に豆を挽いたからまずまずの出来だ。好きな相手を安心させられるくらいに練習しておいてよかったと思った。
すっかりコーヒーの匂いに包まれた部屋で雨の音を聞きながら、彼は黙って明智を待つ。なにか話したいことがあるなら話せばいいと思ったし、言いたくなければそれでいいとも思った。
明智はしばらく唇をまごつかせて、それからハア、とため息をつく。
「……今日はさ、汐留の局で仕事だったんだ」
「テレビか」
「うん。前から何度か呼んでもらってる番組」
明智は言葉を一度切った。言いにくい話に重たげな唇をひらく。
「その……そこのプロデューサーが、まぁ、なんていうかあんまり評判のよくない人でさ」
「評判……?」
「要するに男でも女でも手が早いので有名なんだ、だから僕もときどきお尻とか触られることがあって、」
「な、……ッ!?!?」
彼はほとんど椅子から立ち上がりかけた。コーヒーがボタボタと床にこぼれてあわてて腰を下ろす。
なんて男だ、今すぐ改心させてやりたい、自分でさえ触ったことないのにとさまざまな思いが頭をかけめぐる。殺気立つ彼に明智はあきれた声で言った。
「べつに、どうってことないよ。慣れてるし。さすがに枕とかは断ってるし。デメリットの方が大きいから」
メリットが勝ったらやるのだろうか。彼が不安に顔を曇らせていると明智はふと目を伏せ、長いまつげはどこか寂しげな陰影を頬に落とす。
「ほんとに、……そんなの、いつも通りだったんたけどさ」
栗色の瞳はちらりと彼をみた。まるい目に見つめられ彼は小さく首をかしげる。明智は恥じ入るような声で小さくつぶやいた。
「……なんだか、君の顔見たくなったんだ。それで、来ちゃった」
心臓をつかんで撫でられるような感覚に彼は息を呑んだ。嬉しいやら何やらで背筋がそわそわする。それってどういう意味なんだとか、自分のことをどう思っているのかとか、聞きたいことはたくさんあるのにそれより今すぐ目の前の唇にキスしたくて仕方がない。
でもそれをやったらテレビ局の男とおなじになってしまうと彼が葛藤していると、明智はちら、と上目遣いに見上げて言うのだ。
「……しないの?」
「ッ……!!」
明智が言い終えるとほとんど同時に口づけていただろう。噛みつくみたいにしてしまってまずいと思って一度すこし身を引いて、おずおずと、なるべくやさしく触れなおす。
慎重にようすをうかがってみたが嫌がる気配はなく、重ねた唇の奥で明智が笑った感覚があった。煽られて彼はなお口づけの角度を変える。部屋にはコーヒーの香りばかりがしていたのに、今は明智の甘さだけがただ肺をいっぱいに満たしていた。
やわらかな唇の感触を何度も味わって、動悸でくらくらしてきたところで名残惜しく身をそっと離す。明智は背後の月明かりに淡く照らされ、青白い頬がやわらかにほほえんでいた。
どちらからともなくカップをかたわらの机に置き、二人はぎゅうと抱き合った。初めて触れた明智の体は背丈のわりに細くてパーカーの上からでもわかるほど肉づきが薄い。
こんな薄っぺたい体で大人と対等にわたり合っているのが信じられなかった。テレビ越しの明智はいつも自信満々だったけれど、ルブランにやって来るときの明智は本当にただの高校生で、ときどき擦り切れて壊れてしまいそうにも見えた。
親もなくひとりで大人に囲まれて、どれだけの重圧をこの体に背負ってきたのだろうと思いながら両手でぎゅうっと抱く。
「ほんとにさ、……参るよね、みんな、有名人には何したっていいって思ってるんだ」
疲れた声音が腕の中で言った。
「ちょっとくらい触っても、どうせ、慣れてるだろうって思ってる。気持ち悪いコメントだって平気で書き込むし、……学校で、僕の机で気持ち悪いことするような男だっているんだよ。あれから手袋しないと色んなもの触るの怖くなっちゃった」
彼は全員の名前をしらべて改心させてやりたかったし、自分の手で思いきり殴ってやりたかった。けれどそれより傷ついた明智の魂をすこしでも大切にしたくてその背をさする。
触れ合った明智の鼓動がおだやかになるのが伝わってほっとした。窓の向こうではあいかわらずしとしとと雨が降っている。
雨のせいだねと明智が言った。
「なんだか気が滅入って、……誰かに聞いてほしい気分だったんだ」
「うん」
プライドの高い明智がこんなことを漏らすのはたしかにめずらしかった。雨のせいだと彼も言った。明智の矜持を傷つけぬよう、自分に借りを作ったなどとは思わせないようそう言ってうなずいて、すこやかな頬に頬ずりをする。ほほえんだ明智は彼のあごを両手でつかんで、今度は自分からキスをした。香水の甘さにまじってコーヒーの苦い味がする。
また雨が降ったらと彼が言った。
「雨が降ったら、……いつでも来て」
明智はぱちくりとまばたきして、くすくすと肩を震わせた。
「ふふ、どうしようかな」
まあ、来てあげてもいいかもね。うそぶく声音が穏やかだった。
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