その日、彼はわざわざ待ち合わせをしようと言った。
品川駅のコンコースで背の高い時計の前に立ち、明智は先ほどからしきりに腕時計や自分の身なりをたしかめている。
「とびっきりのデートにするから、おめかししてきて」
ルブランのスタンプをとうとう二十貯めた明智に先日彼が言った。仕事やなんやかんやで十一月までかかったが、最後のそれが押されたときはさすがに明智も胸がワッと弾んだものだ。彼だって当然いつもみたいに浮かれるだろうと思っていたのに、カウンターの向こうに立った男は思いのほか静かにつぶやいた。
「最後まで貯まったな」
「そうだけど、……なんだよ、嬉しくないのかよ。僕が忙しい中仕方なく通ってやったのに」
ううんと彼は首を振った。
「ううん、嬉しい。……キスしていい?」
夜のルブランはもう無人で、明智だけがいつものカウンター席に座っていた。明智はぐ、と返事に悩む。普段なら迷わず皮肉や悪口で断っていただろう。けれどその日の彼はやけにしおらしく、しかし真摯な目をして明智をまっすぐ見つめるのだ。明智はドキリとして、セーターの肩をむずむずとむずつかせてから小さくうなずいた。彼ははっと息を飲んでそれから身をかがめ、うやうやしく明智にキスをする。かすめるだけのそれだった。それでも触れ合った唇の震えから、彼が本当によろこんでいるのが伝わる口づけだった。
明智はあぜんとしてその日はなんだか流れで別れて、そうして今日、ポイント特典の「一日デート」を受け取りに来ている。
日曜の昼下がり、そわそわ顔で彼氏や彼女を待っている中で自分もおなじような顔をしているのかと思うとなんだか気まずかった。二人は付き合っているわけでもないし、こんなふうに日時と場所を決めて待ち合わせることなんてほとんどない。
おまけに今日はこの秋に買ったばかりの新しいベージュのコートだ。めかしこんで来いと言うから明智だって出かけるのを楽しみにしているような見た目になってしまった。苦虫を噛み潰したような顔で明智は図上の時計を見る。待ち合わせまではあと十分ほどあった。
なんだか家にいても落ち着かない気分で約束より三十分早く駅に着いてしまったからブラブラと土産屋のフロアをながめ、それでも時間が余って仕方なく約束の場所にやってきたところだ。
(クソ、あいつ、さっさと来いよな。これじゃ僕ばっかり浮かれてるみたいじゃないか)
顔を合わせたらつきつける文句を考えて腕組みしていたが、ほどなくしてJLの改札を通ってやってきた男に明智は言葉を失った。
それは誰もかれもが振り向くいい男だ。
普段から整った顔立ちを間近で知っていたが、今日の彼はまるでピカピカに磨かれた都会の男だった。
仕立てのいい黒の上下に黒のシャツ、真新しい黒い革靴で、胸もとにワンポイント赤いハンカチーフを差しているところがいつかの怪盗団の装束を思わせた。いつものくたびれたジーンズにボサボサ髪とは別人だ。メガネはなくヘアセットは完璧で、前髪の左側を後ろに流しているのがなんとも優艶だった。
人々の視線が集まるのを当然の顔で歩き、彼はまっすぐ明智のところにやってきた。
「おはよう、ごめん、先に着くつもりで出たんだけど」
「あ……い、いや、僕も……その、そんなに待ってないから……」
さっきまで息巻いていたのにこんなに決めきった格好で来られたらぐうの音も出なくなってしまって、明智はもごもごとそう言った。彼はふ、と目を細めてほほえむ。
「コート、新しく買った? ……似合ってる」
ほっぺたなんかなくなってしまったらいいのにと明智は思った。顔が熱くて恥ずかしくてたまらない。思わずうつむくと彼はかるく明智をのぞきこんで、行こうかとたずねる。明智ははた、と気がついた。
「そういえば、行くって、どこ……」
「エスコートしてやる。……ほら、手」
今日の行き先を知らない明智の右の手をとって、彼は悠然と歩き出した。落ち着かない気分で明智はその半歩あとをゆく。
夏はさすがに暑いので手袋はつけなかったが、昔からの習慣で涼しくなってくると黒い革の手袋を両手にはめていた。どこかに指紋が残るのを恐れていたというのもある。
獅童の件が終わって警察の観察下に置かれるようになってからは左だけつけて右は素手になった。素肌を直接つかまれにぎやかな品川の街へ下りる。
初秋の空はすきっと晴れていた。
「昨日、眠れた?」
「えっ」
不意に聞かれて明智は面食らった。
「いや……普通に寝たけど」
嘘だ。緊張でなかなか寝つけなかった。彼はそうかとうなずく。
「俺は眠れなかった。ドキドキして」
(……!)
いつになくしおらしくそんなこと言うなよと思ったが、明智はハッと思い出す。
「それ、特典のデートだからリップサービスなわけ?」
「? 普通に寝られなかったけど」
聞かなきゃよかった。ますますどうしたらいいのかわからなくなった。彼はくすくす笑って駅前の信号を待ちながら明智に顔をよせる。
「明智、すごいかわいい顔してる。……わざとやってる?」
「! そ、そんな顔してない!!」
彼は声上げて笑って、明智はぐぬぬとパグみたいに顔じゅうシワをよせた。
そうして数分後、ここだと連れてこられた場所に明智は思わずああ、と納得の声をもらす。
「水族館、……学生のときに来たっけね」
品川水族館は、まだ怪盗をやっていたころの彼と遊びに来た場所だ。うん、と彼がうなずく。
「あの日はそんなにゆっくり観られなかっただろ、明智、前後で用もあったし」
予約で買っていた二人分のパスを通し、いかにもスマートに彼は明智をエスコートした。ほの青いガラスに囲まれたしずかな空間をゆっくりとながめ歩く。休日で客は多いが場所が場所なのでみなひそやかに話していた。ここでは手をつないでいてもバレないだろうと明智も思い、彼の骨っぽい手をにぎって変わったかたちの淡水魚を見物する。
まるい水槽のインテリアを見ているうち、明智はふと自分の手が気になって視線を下に向けた。
(手汗、かいてないよな……?)
「明智? どうかした?」
明智の表情にすぐ気づいて、彼は小首をかしげる。
「えっ! い、いや、あの……手、あー……暑くないかなって……」
明智がやんわりぼかして言うと、しかし彼はいつもみたいに茶化したりはせず、ああ、と察してつないだ手を離す。かわりに自然な手つきで明智のコートの腰を抱いた。ほっとしたような、距離が縮まってドキドキするような気分で明智はふうっと息を吐く。
あれはなんとかで、あっちはこういう生態の魚らしいと、彼はまるでオーディオガイドみたいななめらかさで明智に解説した。壁に貼られた文章にも負けない知識量に明智もさすがに舌を巻く。
「すごいね、詳しいんだ」
「この二、三日で勉強してきた。明智に楽しんでほしかったから」
この男はすぐこういうことを言うから恥ずかしかった。でも今日はなんだか嬉しくて、明智は文句を言わずにふふ、とはにかんでみる。
「!!」
「? どうかした?」
「世界中が明智を好きになっちゃう……」
頼むから自分以外にはその顔を見せないでくれと、全身キメにキメた男が懇願するさまは愉快だった。明智は笑って彼の肘を引く。
南洋の魚がカラフルで巨大なマグロは圧巻の迫力だ。群れになって泳ぐ小魚は統率された群衆のうつくしさがあった。背の低い洞窟みたいな通路を楽しんで歩き、小さな丸窓に二人で顔をならべて中の水槽をのぞきこみ、髪と髪が触れ合うくすぐったさに笑い合う。
彼が綿密にプランを立てていたのでペンギンの餌やりは間近で見られた。小魚を頭からパクリと丸呑みにするさまが意外とワイルドだ。
「かわいいのに、意外と腕力も強いらしいよね」
「明智みたいだな」
「ぶつよ」
「もうぶってる……」
館内には水生生物をモチーフにしたカフェもあった。昼下がりのすこし長い列にならび、彼は紙のメニュー表を手に持って明智に見せる。
「うーん、パフェがおいしそうだけど、ちょっと重いかな……」
「分ける?」
「いいの?」
「うん。ブルーベリーのやつでいいのか?」
「あ……うん」
ホワイトチョコのペンギンが載ったパフェは三種類味があったのに、彼はまよわず明智が食べたかったそれを選ぶ。なんでだろうと思いながら順番を待っていれば、こともなげにサラリと彼は言った。
「前に渋谷でクレープ食べたとき、こういうのが好きだって言ってたから、そうかなと思って」
明智はこういうとき、どう返事をしていいのか長らくわからなかった。でも今日はその答えがようやくわかった気がして、ぽそりとなるべくそっけなく、それを唇にのせてみる。
「その……ありがと」
彼はすこし驚いた顔をして、それからくしゃりと笑う。
「どういたしまして」
キザな言い方が嫌になるほど合う男だ。明智は眉をよせて唇を噛んだ。気まずさと恥ずかしさと、幸せみたいな感情が胸の内でないまぜになっていた。
彼のデートプランはまったくよくできていて、立食のカフェでパフェを食べ終えると、二人は食休みのタイミングでイルカショーのホールに行った。この水族館イチオシのショーだ。円形のホールの階段をすこし下って、中ほどの高さのベンチに掛ける。
明智はベンチに両手をつくと、ハアッとため息をつく。
「君って誰をエスコートするときもこうなの?」
「? 明智以外エスコートしないけど」
「……こんなに完璧なのかってハナシだよ」
「あぁ」
彼は整った頭を気恥ずかしげにかいた。
「楽しみにしてから、自分も」
明智はすぐさまツッコミを入れなかったことを後悔した。まるで付き合いたての恋人みたいな雰囲気が二人のあいだにただよってつま先のあたりがどうにもムズムズする。それも決して嫌なムズムズではないから困るのだ。
果たしてなにを喋ったのかもわからない十分か十五分が経過するとホールにはザワザワと観客が集まってきて、ややあってアナウンスがあり、場内がすうっと暗くなる。
そうして始まったイルカショーは絢爛で、明智はわあっと子どもみたいに両目をかがやかせた。
有名アーティストの音楽に合わせてイルカたちが力強い飛沫をあげ、四方八方からとりどりのライトがそれを照らす。イルカはパワフルで、ときにおだやかで、またあるときは、ひどくやさしげに水槽を泳いだ。
「わあっ、きれいだね、すごい……!」
「前来たときはショーまで観られなかったもんな」
「うん、いや、思ってたよりずっとすごいよ」
きらきりと散る飛沫がうつくしい。イルカが跳躍するたび躍動する生命のまぶしさになんとも感動させられた。
明智は手のひらが痛くなるほど拍手をして、となりの彼もまた興奮気味に何度も手を叩いた。
「はあ、面白かったね。途中のクラシックアレンジがよかったな」
「すごい高さまで飛ぶのがびっくりしたな」
熱気も冷めやらぬまま彼につられて歩いていると、みやげ物のコーナーに着いて明智ははっと嬉しくなる。今の明智にはみやげを買う相手がいるのだ。ドヤ、と得意げに彼を振り返った。
「今日はデートだからね、『仕方なく』『この僕が』君にもおみやげ買ってあげるよ」
「っ…………ふは!」
「!!!! おい、笑うな! 笑うなよ!?」
「ごめん、……っくく、おかしくて……」
「クソッ! もう一回笑ったら帰るからな!?」
「くく……笑ってない、笑ってないから」
「今絶対笑ったよね!?!?」
キャンキャン言ったが明智は『仕方なく』彼あてのおみやげを物色した。いかにもカップル向けのアクセサリーから箱菓子にぬいぐるみ、定番のものがひとそろい揃っており、やはり土地柄おしゃれなデザインのものが多い。くるりとコーナーを一周して、明智はアクセサリーの売り場に目を留めた。
「どれか気に入った?」
横から彼がのぞきこんでくる。
「あ……ええと……」
サンゴのかたちの指輪がきれいだ。細身であまりジャマにもならなそうなデザインで、彼がコーヒーを入れる手にこれがあったらいいだろうなとすこしだけ思った。
(でも、付き合ってるわけでもないのに指輪ってさすがに重いよな……渡すのも恥ずかしいし……でも、こいつならこういうの喜んだりするのかな?)
いつもの癖で唇に手を当て考えこんでいると、明智の視線を追いかけた彼が聞いた。
「指輪?」
「えっ…………うん……あの、いらないかな?」
その日一日にこにこしていた彼はそのとき、一瞬困惑した顔を見せた。明智ははっと首を振る。
「や! べつに、そういう関係でもないし! なんとなくキレイだなって思っただけだから! て、てか、俺がこんなの買うわけないじゃん?? お前なんかに??」
「明智、あの、」
「お前なんかこれで十分だろ、ほら、買ってきてやるからな」
そのへんにあったイルカのぬいぐるみを引っつかみ、明智はさっさとレジへ歩いた。心臓が嫌なテンポでドキドキしていた。
(クソ、……クソ、なんだよあいつ、あんなに口癖みたいに僕のこと好きって言うくせに……一緒に探偵だってやりたいって言うくせに……)
それなのに指輪は嫌なのかと思うと自分ばかりが浮わついていたみたいで恥ずかしかった。ぐす、と鼻をすすり、次の方どうぞと言われて慌ててレジに歩く。
「プレゼント用ですか?」
聞かれてけっきょくはいと答えてしまう自分がますます悔しかった。
「夕飯、店予約してあるから」
水族館のエレベーターを降りながら彼が言った。明智はきょと、と小首をかしげる。
「え……っと、そうなんだ?」
「ああ。ここから歩いて十分くらい。……いい?」
「それは、いいけどさ……」
普段はてきとうに目に入った店や、明智が気になっていた店に行くくらいでこの頃は彼の作った料理を明智のマンションで食べることが多かった。どんな店より彼の作ったもののほうが好きだと明智が自覚してしまったせいだ。
予約までするのはめずらしいなと思いながらついてゆき、たどりついたレストランでぼうぜんと立ち尽くす。
高層ビル上階の、いかにも名店らしい風格ただようイタリアンだ。大理石の廊下を歩いて個室に通され、赤いビロードのカーテンの部屋に明智はさすがにあわてて彼の服を引く。
「ちょ、ちょっと、君、大丈夫なの? 超高級店だよね? ここ、」
「問題ない。バイトした」
大学生がどんなバイトをやったらこの店の部屋代が問題なくなるのか明智にはわからなかったが、彼がそう言うので仕方なく白いクロスの敷かれた丸テーブルに着く。彼もむかいに座って、ほどなくしてウェルカムドリンクのシャンパンがやってくる。花見のときとちがって彼はもう堂々と飲める年になっていたから二人はカランと音を立てて乾杯した。
「……おいしいね」
普段飲んでるものとは比べものにならないほど芳醇でこっくりしている。それなのに後味がシュワッと爽やかだ。明智がついつい口もとをゆるめると、彼はほっとした顔でうなずいた。
「コースで頼んであるけど、食べきれなかったら無理しなくていいから」
「いや、正直楽しみ。出だしからおいしいし」
「……そうか」
「? どうかした?」
「いや、」
彼はすこし言葉をえらんで、それからゆるく片手を振った。
「嬉しいと思って。明智って、前は食べるものとかあんまり興味がないみたいだったから」
「…………あ」
そういえばそのとおりだ。楽しいと感じるようになったのはあるいは、いつかのたこパあたりがきっかけだったのかもしれない。
幼少期の母は夜型で明智と食べることは少なかったし、親戚の家ではいつも身を小さくして箸を運んでいた。高校のころなんか家では冷食やインスタントばかりだった。タレントの仕事を得てからは話題についていくためにグルメにも手を出したがあくまで仕事の一環である。彼が無理やり押しかけて食べさせるから、いつのまにかそれが明智の普通になってしまったのだ。
細長いシャンパングラスを片手に明智はふとほほえむ。
「君、ほんとに毎回強引だったよね。僕あんなに来るなって何度も言ったのにさ」
彼は前髪をいじいじといじった。
「……まあ、明智がちゃんとしたもの食べてるかとか、心配だったし」
「え」
初めて聞く話だった。そんなことを思っていたのかとおどろいていれば前菜がやってきて、ウェイターが丁寧に皿の上の説明をする。彼のことを考えていたから頭にはよく入らなかったが食べてみるとたしかにホタテのマリネはおいしかった。季節のサツマイモのポタージュがフレッシュで柿のクリームチーズ添えはシャレた味だ。
でも、と明智は彼を見やる。食事を楽しむ横顔にぽそりと言った。
「……この店もおいしいけど、僕、……いまは君の食事が……その、一番好きだから」
彼は石みたいに固まって、それから危うく泣きそうになった。明智はあわててその背をさすって弁解する。
「っで、デートだから言ってやっただけだからね! わかってる!?」
「う……わかってる……あけ、明智は俺の料理が一番好き……」
「絶対わかってないよね?????」
こんなことなら言わなきゃよかった。でも彼が明智の食事を心配していたなんて言うせいでつい口からこぼれてしまったのだ。
気まずくシャンパンを煽っていると焼きたてのバゲットがやってきて明智はようやくほっとする。
旬野菜のテリーヌもサーロインのコーヒー豆添えも、ズワイガニのクリームパスタも絶品だった。なによりとなりで食べる相手が、彼がいるから食事が楽しい。
「いい店だね、ほんとにどれもおいしくて」
「昔惣治郎に教わったんだ」
「じゃあ、よく来るの?」
「いや、……明智と最初に来たかったから。今日が初めて」
「ふうん?」
なるべく興味のないふりしてうなずいてみせたが悪い気はしなかった。明智は機嫌よくクスクスと肩を揺らしてグラスをかたむける。
数杯目の赤ワインをほろ酔いで飲んでいると、不意に店員に呼ばれて彼は廊下に行った。それから紙包みを手にして帰って来る。
「あれ、なに、」
明智がつぶやいた瞬間窓辺のカーテンがゆっくりと上がった。機械の音を立ててキュルキュルと持ち上がり、きらきらときらめく東京の夜があらわになる。いきなり真正面にあらわれたスカイツリーに明智は思わず息を呑んだ。
「これ……ええ……? 知ってたの?」
知ってたに決まっている。彼が予約した店だ。それに、
「え、……花?」
彼は絨毯に膝をついて、赤いバラの花束を明智に差し出していた。キメすぎたキザな演出なのに、悔しいくらいに似合っている。明智は小さく鼻をすすって花束を受け取った。目頭をかるくおさえてあはと笑う。
「スタンプカードの特典にしては、豪華なデートなんだね、びっくりしちゃったよ」
「特典じゃない」
「え」
きっぱり言い切られて顔を上げると、彼はひざまずいたまま、胸元のポケットから小さな紙箱をとりだした。パカリと開けた中にはシルバーの指輪が入っている。
「あ……」
「好きだ。付き合ってほしい。明智と、きちんと恋人になりたい」
水族館で指輪を断ったのはこのためだったのだと、今になって明智は理解した。廊下からもどってきた彼の左の薬指には同じデザインの指輪がはめられている。
(ああ、……なんだ、指輪が嫌なわけじゃなかったんだ……)
緊張で眠れなかったのもキメキメで来たのも納得だ。彼は今度こそ冗談ではなく、本気で明智に告白する気でいたのだ。合点がいって明智が放心していると、勘違いした彼があわてて言う。
「……! あの、まだ受け取りたくないなら、いくらでも待つから、」
「……いや、」
明智はゆるく首を振って、白い紙箱を手にとった。華奢でうつくしい細工を持ち上げてながめてみる。ためしに左手の薬指にはめてみるとぴったりだ。
「よくわかったね、サイズまで」
「……渋谷で遊んだとき、店でサイズ見てたから」
そんなときからこうすることを考えていたのかと思うと明智にはもうそれ以上断る理由が浮かばなかった。
ただし受け取ってやってもいいけど、ひとつ条件がある、と明智は言った。彼は不安げに眉をよせる。
「条件……?」
「うん。……僕の手袋を返してほしい」
彼はすこしためらったようすを見せ、けれど、小さく首を振ってうなずいた。
「そうだな。もう、俺が持ってる必要ないな」
「え?」
「……返したら明智、今度こそどっかに行っちゃいそうだったから。……でも、これからはこっちが約束だから」
明智の左手を持ち上げキスをして、彼はやさしくほほえんだ。こらえていたのにとうとう泣けてきて、明智は花束を抱き締めてぐす、とうつむく。
どうしてわかったのだろうと思った。
本当は、右手だけつけていなければまた彼にどこかで会えるかもしれないと思っていた。そうして再会したころの明智はまだ不安定で、どこにいても自分はここにいるべきではない気がして、東京という広大な都会で迷子の犬みたいによるべなかった。
あるいはあのとき手袋を返されていたら、彼のいうとおり手の届かないどこかに消えてしまった可能性もある。それを彼が手袋で縛りつけて、食べるのは楽しいんだと明智に教えて、自分は母親に愛されていたのだと気づかせて、何度も何度も好きだと言って、とうとう明智を新しい約束でつかまえた。明智は誰かとの約束を破るのが好きではないから、きっとこれからはずっと彼と生きていくだろう。探偵事務所でもひらいて一緒に事件を解決する未来を思うと胸が躍った。ライバル同士が手を組めば負けないって、古今東西のミステリー小説で証明されているのだ。
とうとう自分の居場所をみつけた明智は笑って、彼の胸に飛び込んだ。彼はこんなに決まっているのに、明智のイエスを受け取るとよろこびで泣き出すからおかしかった。おそろいの指輪がきらきらと、二人の左手できらめいていた。
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